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自尊心が満たされている人は”解釈”が上手である。

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「自尊心」

現代社会を生きる人間にとって、これを満たすことは最大の欲望の一つであり、それだけに取り扱いが非常に厄介な代物である。

自尊心が満ち足りていないと、例えばSNSにおいての反応を過度に求めてしまったり、他者に対して媚びたり、褒められるために嘘をついたりしてしまう。結果として、そのような行為の連続に疲れ果て、ときに自分自身を責めてしまうこともある。

自尊心を正しく満たすことは、幸福になるための重要な要素の一つかもしれない。(ラッセルなどはまさにその部分に着目して幸福論を書いている)

そもそも自尊心とはなんなのだろうか。また、自尊心が満たされている人とそうでない人には、どのような違いがあるのだろうか。それを検討するために”自尊心”という概念を分解してみよう。

”自尊心”という言葉は「自分に自信がある状態」「自分が認められていると認識している状態」などの文に換言することができる。このとき「自分に自信がある状態」も「自分が認められていると認識している状態」も、主観的な自分への評価であることがわかる。「自分に自信がある状態」はそのまま「自分」が「自信を持っている」という状態であるから、これは間違いなく主観的な評価である。また「自分が認められていると認識している状態」に関しても「自分」が「認められている」ことを「自分」で認識している状態だから、これも主観的な評価である。重要なのは、他者の評価がどうであれ、自分が他者に認められていると認識すれば、その認識は自尊心を満たすということである。要は「自分で自分を認めている状態」 それが自尊心が満たされている状態だと言えるのかもしれない。

「自分で自分を認めている状態」は、ある尺度において自分を一定以上評価をしている状態と言い換えられる。

例えば”年収”という尺度で自己の存在意義を計る人がいたとして、その人が「年収1000万以上稼いでいる自分はすごい」と感じているのなら、その人は年収という尺度で自己を評価しているという意味で、自尊心を満たしていることになる。

また”家庭的”という尺度で自己の存在意義を計る人がいたとして、その人が「子供が沢山いるのに家事を完璧にこなしている自分はすごい」と感じているのなら、その人は家庭的という尺度で自己を評価しているという意味で、自尊心を満たしているということになる。

つまり”自尊心”には尺度と評価という二つの要素があると考えられるのだ。そして尺度と評価双方は、絶対的な事実ではなくて相対的な解釈、もしくは、他者的ではなく自己的な認識である。

尺度に関してはわかりやすいだろう。自己を評価する際にどんな尺度を利用するかは、自分で勝手に決めて良い。当然、尺度を設定する際には、今自分が置かれている周りの環境が大きく影響する。しかし、どんなに影響が強くとも、最終的にそれを選択する権利は自己に付されている。

評価に関しても、最終的にそれを判断するのは自分である。もちろん他者からの評価というものはある。しかし、最終的にそれを自己の評価と紐づけるのは自分自身以外にありえない。褒められてもいないのに自分を評価できる人もいれば、いくら褒められてもそれをお世辞だと判断し、いつまで経っても自分を評価できない人もいる。あくまでも”自尊心”という観点で考えれば、自己を評価していることが全くの勘違いでも問題ない。(実社会の生活においては、勘違いした自己評価が足を引っ張ることが往々にしてあるが)

つまり、原理だけを考えれば、尺度も自分で決められるし、評価も自分で決めて良いのである。

以上のことから、自尊心が満たされているか否かという違いの原因は、究極的には解釈の得手不得手に求められると言える。

自分を評価しやすい尺度を選び、それが大したことなくてもその中で自分を評価する。尺度と評価を上手に解釈できる人は、おそらくどんな場所でも、自己の能力や実績が向上しなくても、自尊心を満たすことができるのだろう。

一方で、尺度と評価の解釈が苦手な人は、いくら良い場所でも、いくら自己の能力や実績が向上しても、自尊心を満たすのが難しいのかもしれない。


※一応補足をしておくが、自尊心を満たすためには解釈だけが必要であると言っているわけではない。周りから褒められることが多い人は自尊心を満たしやすいだろうし、能力や実績や地位が優れている人は、高い自尊心を持っていることが多いのは間違いないだろう。そういう意味で、解釈以外の外的要因も非常に大きな影響を持っている。
しかし、似たような外的環境を持っているのにも関わらず、自尊心の満たされ方に大きな開きがある(ように見える)ケースが散見されるのはなぜか。
その違いはやはり解釈にあるのだろうと思う。そういう話だ。



だから、自尊心を満たすためには尺度か評価の解釈を捻じ曲げてしまえば良い。比較的簡単なのは尺度を変えることであろう。とはいえ、精神的な意味で「この尺度を採用しよう」と認識を変更するのは至難の業だ。できないこともないが、これができる人が自尊心に悩んでいるとは思えない。もう少し現実的な方法としては、活動する場所を選ぶことである。

もう少し具体的にいうと、設定したい尺度が重視される場所に長くいること、だ。

例えば、仕事の能力や年収や地位には自信がないけれど、語学学習には自信がある人がいるとする。その人が仕事という尺度を用いて自身を評価しようとすると、多くの場合その認識は悪い方向に進み、自尊心を損なってしまう可能性が高い。そういうときは、語学という尺度が重視される場所に行ってみるようにしよう。語学で遊ぶようなサークルに参加してみても良いと思うし、語学についての発信をしても良いかもしれない。そうすれば、自分の中の評価の尺度が、仕事から語学に徐々に変化していく。尺度が語学になってくれれば、自分を評価できる可能性が高くなる。そういう意味で、語学に関係のある仕事に転職するのも有効であろう。仮に年収が著しく下がったとしても、それでも転職を考えた方が良いかもしれない。それほどまでに自尊心というものは重要なのだ。

幸いなことに、私たちが暮らす現代社会では「評価尺度が違う場所に移動すること」がとても簡単に行える。このテクノロジーの利は、使うに越したことはない。

人間なんてだいたいバカだ。バカなんだから、全ての認識を正しくしようと努力する必要はない。勘違いで良いのだ。より良い勘違いをして、気持ちよく暮らせたら、むしろそれこそが賢い生き方である。

尺度と評価を思いっきり勘違いして自尊心を満たす。これは現代社会において非常に重要なライフハックであると思っている。


ちなみに、私はなぜか何も考えないでも自分に自信が満ち溢れている。だから自尊心に関して困ったことが一切ない。多分、とんでもないバカなのだろう。







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