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プラグマティズム|パース 【君のための哲学#17】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



プラグマティズム


プラグマティズムはアメリカで生まれた。創始者はチャールズ・サンダース・パース(1839年-1914年)である。一般的に「道具主義」や「実用主義」などと訳されるプラグマティズムは実践を重視する。実践をし、得られた結果が有用なものだった場合、その結果を暫定の真理として運用するのだ。これは理性的な積み上げによって絶対的な真理に到達しようとしたヨーロッパ的な哲学の歴史に反発する考え方である。プラグマティズムは、アメリカとヨーロッパの違いを表す端的な要素と言えるかもしれない。事実、アメリカはプラグマティズム的な方法論で大きな成長を果たした。
プラグマティズムには様々な論者がいて、論者ごとに主張していることが微妙に違う。そういう意味で、プラグマティズム的な主張を全て「プラグマティズム」と一括りにしてしまうことには危険が伴う。とはいえ、プラグマティズムの生みの親といえば、パースしかあり得ない。
パースは、当時あらゆるところで当たり前だと思われていたデカルト的真理観に異論を唱えた。デカルトは「我思う、ゆえに我あり(Cogito ergo sum)」と言い、「絶対的に疑いようのない疑う自分」を公理にして、そこから演繹的に絶対的な真理を構築できると考えた。しかし、パースはこれを自己欺瞞だと批判する。
私たちは、必ず記号(言語)を用いて何かを理解・認識する。「赤い感じ」を印象として感じたとき、それが「赤い」という言語とセットになってはじめて「赤い感じ」という認識が生まれる。言語がなければ「赤い感じ」は🟥のままである。このように、私たちは、言語抜きで対象を知識として認識することができない。そして、言語は共同体において相対的な影響を受けて成立している。だから「我思う、ゆえに我あり」ですらも相対的要素を持つ言語によって表現されているという点で、絶対的な公理にはなり得ないのだ。よって、絶対的な真理は人間の傲慢が作った幻想でしかない。



君のための「プラグマティズム」


パースは「純粋な内面的意識」というものを否定した。簡単にいえば、意識が主体の中に単体で存在することを否定したというわけだ。意識ですらも外界の影響を受ける。外界との関係なく存在する意識などない。その意味で、意識は身体の内部にも外部にも存在する。(デカルトの主張は、意識が内部に独立して存在するという前提に支えられている)
プラグマティズムを提唱する哲学者たちに共通するのは、この「絶対的真理観の否定」と「意識の外部性」である。
真理とは絶対的にそこにある類のものではなく、共同体の中で連続して更新されていく生き物のようなものである。それは社会的な真理に関してもそうだし、自己(意識)の人生における”正解”に関してもそうである。
難しい議論は他の機会に譲るとして、この考え方は私たちの人生に端的に役に立つ。私たちはともすれば「絶対的な正解」を探し求めてしまう。しかし、原理的にそんなものはないとしたらどうだろう。見つからない探し物をしてしまうことで、前に進むことができなくなってしまうのではなかろうか。そうなのだとしたら、”正解”をもっと動的なものとして捉えてしまえばよい。”正解”とは、その時その時の周りの環境や関係によって、常に更新されていくものである。そう考えることができれば「とりあえずの”正解”」を設定してアクションを起こすことができる。そして、その実践の結果「とりあえずの”正解”」が間違っていたとしても、それは単に新しい「とりあえずの”正解”」の材料になるだけだ。「絶対的な正解」を探し求めて立ち止まってしまうよりも、「とりあえずの”正解”」で少しずつ前に進んでいる方が、いくらか良いと思うのは私だけだろうか。
パースから始まるプラグマティズムは、そんな「前に進む勇気」を私たちに提供してくれる思想である。





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