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「じゃあお前がお笑いやってみろ」に関する考察


こんにちは。哲学チャンネルです。

お笑い芸人を一般の人が批判すると「じゃあお前がお笑いやってみろよ」と反論されるケースがあるじゃないですか。確かにその言い分もあるのかもなぁと思いつつ、なーんか腑に落ちない違和感があったんですよね。

ってなわけで、今回は「じゃあお前がお笑いやってみろ」論に対する考察をしてみたいと思っています。


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結論:「お前がやれ」論は特定のケースにおいて暴論である


まず話を具体化するために、実例としてお笑い芸人のケースを考えてみましょう。

Aが何かしらの芸事を表現します。
それに対してBは「つまらない」と批評します。
AはBに対して憤りを覚え「お前はできるのか?」「やってみろよ」と反論します。

一見、Bは自分にできないことをAに押し付けているように見え、この一点だけを取ってみるとAの反論はわりと妥当なように感じます。
しかし、ここで注目しないといけないのはAとBの属性です。
これが純粋にAとBという属性なしの関係であれば「お前がやってみろ」論は妥当な反論だと言えるかもしれません。しかし問題はAはお笑い芸人でありBはお笑いを見る観客であるということです。つまりこれは『職業』『仕事』が絡む問題だということ。

お笑い芸人は職業として芸をアウトプットし、それを観客に提供することによって生計を立てています。昨今の世の中では両者の間に広告モデルをはじめとする複雑なビジネススキームが絡んでいるために少しわかりづらくなっていますが、本質的にはAは提供者でありBは被提供者なのです。

ですからAとBは最初から全く違う立場に置かれています。
お笑い芸人は芸を提供することでお金を稼ぐ人であり、観客は芸を見るためにお金を払う人ですからね。両者においての専門分野は全く違うのです。

ですから、お笑い芸人(A)は人を笑わせることに熟練しているのと同様に、観客(B)はお笑いを見ることに熟練している可能性があります。そしてBが「人を笑わせること」においてAに劣っていたとしても「お笑いを見ること」においてはAよりも優れているケースはいくらでも想定できるでしょう。

このような例は以上のケース以外にもいくらでも挙げることが可能です。

例えば飲食店と美食家の関係ではどうでしょうか。
飲食店の職人は「料理をする」ことに熟練度があります。一方美食家は「料理を食べること」ことに長けていますよね。仮に、料理ができない美食家がいるとして、料理ができない事実が「食べた料理を批判する」という行為を妨げるでしょうか。「じゃあお前が作ってみろ」が成り立つでしょうか。私にはそう思えません。

また、タクシーの運転手と乗客の関係はどうでしょうか。
タクシーの運転手は「運転する」ことに熟練度があります。一方乗客は「タクシーに乗る」ことに長けているかもしれない。仮に、運転ができない乗客がいるとして、運転ができない事実が「タクシー運転手の運転を批判する」という行為を妨げるでしょうか。「じゃあお前が運転てみろ」が成り立つでしょうか。私にはそう思えません。

そのように考えていくと、観客の立場からお笑い芸人を批判すること、ひいては、サービスの被提供者がサービスの提供者を批判することは、至極普通のことであり、そこに対して「じゃあお前がやってみろ」とするのは暴論以外のなにものでもないように感じます。

とはいえ「お前がやってみろ」と言ってしまう気持ちはわかります。
おそらく、そのような言葉が出てきてしまう背景には、提供者と非提供者における関係の不明瞭化があるのではないでしょうか。

テクノロジーの発達により、サービスとそれに付随するお金の流れが、急激に複雑になりました。

昔は今よりも提供者と非提供がはっきりしていましたよね。
それこそ、テレビがまだなかった時代。芸事の多くは大衆劇場で行われていたわけで、そこに集まる観客は明らかに芸事を見るためにお金を払っていました。芸人は観客がお金を払っていることを明確に認識していましたから、仮に批判があったとしても、それを観客の正当な権利として見ることができたはずです。(とはいえ、その批判を受け入れるかは別。)

しかし、現在はどうでしょうか。
例えばテレビ。テレビを見ている人はテレビ番組に課金している人でしょうか。こう問われるとちょっと微妙な感じがしませんか。
でも、間接的にはテレビを見る人はテレビ番組に課金していると言えます。
テレビを見る人がいるからテレビに対して広告費を払うインセンティブが発生する、その広告に対して一定の効果(購入者)がある、広告費が発生するからテレビ番組が制作され、出演者にギャランティが支払われる。
このように(「風が吹くと桶屋が儲かる」みたいな話ではあるものの)テレビを見ている人は、出演者にギャラを支払っていると考えることもできるのです。まぁここまでくるともはや因果関係がよくわからないですし、実際にただ乗り状態の視聴者がいるのも事実でしょう。しかし被提供者という集合を考えると、明らかにその集合は提供者に対して課金をしているし、そうじゃないとビジネスが成り立たないのです。

ただ実際のところ、提供者は目の前の間接的な被提供者のことをだと認識できていないことが多い。そこにこの問題の本質が隠されているのではないでしょうか。

元々、サービスの提供者には被提供者からの批判がつきものです。私も普段の発信に対する批判を受ける覚悟はできています。(とはいえ、私はメンタルが非常に弱いので、批判する際は優しく柔らかくお願いしたい。)
そんな中で、サービスの被提供者ではない外部(例えば私の発信を全く見ないで批判する人など)から批判されることに対しては、穏やかではいられないですよね。そして、サービスの被提供者からの批判を、被提供者ではない外部からの批判だと誤認してしまう構造に、「お前がやれ」論の本質があるのではないかと感じます。

もちろん、批判する側の品格というものもあるでしょう。度を超えた批判(例えば提供されるサービスの内容を超えた事柄に対する批判や、提供者の人格批判など)は、それが被提供者からのものであっても看破できないケースがあって当然です。批判する側はする側としての矜持を持つ必要が、される側もされる側としての覚悟を持つ必要があるのではないでしょうか。

お互いが矜持と覚悟を持って応対する関係って、かなり美しいと思うんですよね。そんなリテラシーを育てていくことが、文化がより活発に醸成される基礎を作るのだと思います。



追記

以上のことから、サービスの提供者ではない人間への度を超えた批判、またはそれがサービスの提供者であっても、当該サービス以外に関わるものに対する批判(不倫とか不倫とか不倫)は、公共の福祉に反する可能性があると考えます。(とはいえ、サービスの中に好感度などが含まれる場合の不倫が「当該サービス以外に関わるもの」にあてはまるのか?など、実際はとても難しい問題であるわけですけど。)

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