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推し ということ(日記)

こんばんは、てつです。
いつもnoteは題材を決めてから本腰を入れて書き上げるんですが、たまには日記的なものがあってもいいかなと、思いつきでまとまりのない気持ちを書いてみることにしました。
時間つぶしにでもどうぞ。

⚠️本記事の内容は、筆者の個人的な意見を述べる箇所がございますが、全て感想であり、根拠等ございません。読む際は留意していただけると幸いです。⚠️

最近よく考えることがあります。それは、「僕は推しとどういう関係になりたいんだろう」という問題について。
ここで言う僕にとっての’推し’は、プロダクション体育館という着ぐるみサークルのアイドルや、ケモノVTuberのウィルたぬきなどがそれにあたります。
僕は大人になってから初めて本気で他人を応援したいという気持ちになったので、イマイチ気持ちの整理をつけることが出来ず、割と暴走してしまいます。
今までは気の向くまま、思いのままに行動してきた僕ですが、割と迷惑をかけるスレスレというかたまにアウトラインを踏み抜くことがあります。
そんな訳で、今1度、僕の今までの行動から推しという存在が僕にどんな影響を与え、どう向き合っていくのが正しいのか考えてみてもいいかもしれないな、と思い至りました。

僕が’推し’に対して行う行動自体は恐らく普通だと思っています。そう思いたい。
具体的には活動を応援して、たまにコメントして、SNSでの投稿にいいねしたり、共感性が高いものにはリプライを飛ばしたり。
こういう行動って、ファンは一体なんのためにやってるんでしょうか。答えというか可能性はいくつか自分の中にあります。

・応援していることを本人に伝えたいという純粋な気持ち
・認知してもらいたいという気持ち
・応援する事で自分自身が満足したいという気持ち

他にも色々あるとは思いますが、僕が頭を抱えているのが’認知’の問題です。他はそれ単体で基本完結する問題なんですが、認知にはその先があります。
認知してもらうということは、とことん悪くいうと、その人の記憶領域を奪って自分の存在を主張するということです。
もっと優しく言うと、推しから特別な存在として認識してもらうということです。

例えば、いつも配信やリプライで推しに対してコメントや応援を続け、その結果推しから「いつもありがとう」と言ってもらえたら、これは非常に嬉しいです。
ただ、推しから特別な存在として見てもらうために応援をするというのは、いささか不純な気もしますし、それが全てじゃないやい!と声を大にして言いたくなります。あくまで本筋は推しに応援の気持ちを伝え、活動モチベーションの維持などに務めて欲しい、という気持ちの副産物として認知がある、という立ち位置の方が誠実な気がしますし、大体がこれにあたると思っています。

まあそれは傍から見たら分からないし、どっちでもいいんです。本題は、もし少しでも認知が目的としてあるのなら、その先にあるものは一体なんなのか、ということです。
僕にもほんの少し、いや、それなりに認知してもらえたら嬉しいという気持ちを抱えて応援はしています。はしたないのでそれが全面に出ないよう細心の注意は払っているつもりです。出ていてイラつかせていたらごめんなさい。感情コントロール精進します。
推しができた当初は深く考えずにそういう行動を本能的に取っていたんですが、よくよく考えると僕らは、いえ、僕は、認知して貰ってなにがしたいんでしょうか。

パッと思いついたのは、優越感に浸りたい、です。
僕の心は基本歪んでいます。自分の心に巣食うきったない部分って、取り除けはしないけど隠すことはできるので、綺麗な自分を取り繕っています。でも気持ち自体は隠せないので正直に申し上げると、認知してもらったら気持ちいいだろうなあ、とは思ってしまいます。
みてみて、俺〇〇くんにこんなこと言われちゃったんだぜ。他の人は言われてないだろうなあ、俺だけの体験だろうなあっつって。
不純だなあ、嫌だなあとは思いますが、思ってしまうこと自体はどうしようも無いので、他人から見て不快にならないよう隠してしまえばいいか(言わなきゃいいだけ)、と割り切るようにしてしています。これは日記なので僕の深層心理も言ってもいいかみたいな投げやりな気持ちもあったりします。あんまり他の人に言わないでね、恥ずかしいから。
でも結局、優越感の先に待つものって何も無くて、
じゃあ認知されました。覚えててくれたんだ、嬉しいな。優越感感じてるな。
って思って、その後自分の心の狭さにしょんぼりしてしまってはい終わりっていう。
これは優越感のひとつの終着点なんでしょうかね。分かりませんが、他にも認知について思うところはあるのでこの話題はこれで終わりにします。

認知のその先にあるものパート2は、仲良くなりたいorお近付きになりたい、です。
これも優越感に通ずる所はありそうなんですが、一旦そことは切り離して考えてみます。
独占欲、みたいなものなんですかね。仲良くなりたい、は友達になりたいみたいなものかもしれませんが、そうすると独占欲とはまた違う気もしてきます。
友達に対して独占したいなんて思うこと……まあないと言ったら嘘になりますね。僕はふと、自分が相手にとっての1番でありたいと思っては自己嫌悪に陥ったりしてました。クソダサいし未熟だね、って俯瞰した自分に冷笑されている気分。
じゃあ同じかもしれません。仮に認知の先に友達になりたいという心理があったとして、僕は友達が推しになることってないんじゃないかと思っています。
推しってキラキラ輝いてて、自分とは違う次元にいて、憧れちゃったりして、すごく遠い存在なんです。遠い存在でなきゃいけないんです。これは妄信的にそう思っているのではなく、一応根拠があります。
例えば母親が世界一のトップアイドルだとして、推しになる可能性って万が一にもありますか。あるのかな。あるかもしれないけど、僕には全く想像つかないです。それは親友でも誰でもいいです。深く知っている相手が推しになることって僕はないんじゃないかと思っています。多分推しと1万年一緒に過ごしたら、少なくとも推しではなくなっていると思います。
何が言いたいのかというと、僕は推しが推したる要素のひとつに、’相手のことを深く知らない’という要素が必要なのではないかと考えています。
人には色んなパラメータがあって、秀でたもの、そうでないものがあります。僕の経験則ですが、その人にハマる瞬間は、いつだって秀でた才能や突出した何かで頭をガツンと殴られたような衝撃があります。それは突然なんです。予想もしてない方向から飛んで来て、深く海馬に叩き込んでくる感覚、それを既知の相手から食らうのは至難の業です。だって知っているから。経験値を持っていて、予想出来てしまうから。
そして、推しのことをもっと知りたい、見ていたいと思う気持ちになります。すなわち、自分が持っていない、知らないものを与えてくれる存在でなければ、推したりえないんです。

話は戻ります。認知の先に友達になりたいという欲があったとして、先程の僕の仮説になぞらえると、推しと万が一にも友達になってしまい、深く相手のことを知ってしまうと、推しでは無くなる危険性があります。これだけは絶対に避けたい。僕は健全にいつまでも推しを推し続けたいんです。大人になった今でも、いえ、大人になった今だからこそ、僕の人生にいままで存在しなかったキラキラしたものを、できるだけ長く追いかけ続けたいんです。

まとめます。日記だからまとまりないとか言いつつまとめちゃった。性なのかも。

◆推しに(心理的に)近づいてもいいことないよ。
◆本能的に推しにとっての特別であろうとしてしまう事自体は仕方ないのかもしれないけれど、その先に待っているものは決して幸福では無いよ。
◆推しであり続けたいなら適度な距離で応援することが結果的に長い目で幸福だよ。

これは自戒、以上。

なんだかどこかの記事でも同じような結論になった気がする。何がしたいんだ僕は。
ありがとうございました。

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