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『貧乏人のツラしてるな』

今から6年前の、2014年11月28日。
俳優の菅原文太さんがご逝去されました。
享年81歳でした。

少し自分の事を書かせていただきますが、僕は高校を卒業し地元のある企業に就職しました。

当時はバブル崩壊後とあり、7人兄弟の長男であった僕は、全国で高卒での本事務採用の1名の枠に入ることが出来ました。

試験前日のお祭りで仲間たちと夜遊びし、当日の朝は試験会場の最寄り駅ではない所で下車し、ギリギリ会場に間に合いましたが、テストは満足のいく結果ではありませんでした。

受験者は近隣の頭の良い人たちばかりの中で、受かったのはたまたま面接官との相性が良かったからだなと思ってます。

そんな狭き門で入社し、親と学校の期待を受けながら、僕は入社半年で辞めました。
当時は沢山の関係者にご迷惑をお掛けしました。
本当に申し訳ありませんでした。

辞めた理由はというと、『役者』として夢に向かいたいという強い気持ちが生まれたからでした。

小さい頃から演じる事が好きで、中学生の時は主役として、学校代表で市民演劇祭に出るのが目標で、2年生と3年生の時に出させてもらいました。

母も当時は周りの親御さんから僕のことを言われるのは嬉しかった様で、誇らしくしてたのを覚えています。

二十歳で幼馴染をアテに上京し、鳶として高層ビルの建設をしながら、22歳の時にやっとお芝居を始める事が出来ました。

そこで出会った先生や仲間のおかげで、お芝居の魅力にどっぷりハマり、それから暫く先生の元でアシスタントとしてお芝居の勉強をしながら、教える事も学ばせてもらいました。

事務所に所属し、オーディションに受けるも全然受かりません。有るとしたら、たまにカメラの学校や雑誌のモデル。
でも当時の自分はそれでも凄い嬉しかったです。

そして、初めて受かった某ビールメーカーのCM。
2日に渡り深夜まで撮影してました。
初めての現場で、初めてのロケ。
気持ちは舞い上がっていました。

でも、一気に奈落に落とされ、僕の気持ちは悔しさと情けなさでいっぱいになりました。

僕のシーンはありませんでした。
唯一あったのは手だけのビールを水の底から取り上げるシーンだけ。

テレビで観た時はしばらくボーッとしてました。

その翌年にも同じことがありました。
フジテレビ版SASUKE『バイキング』。
予告のCMから自分のシーンが流れてたので、本編を楽しみに地元の人たちに観るように伝えてましたが、本編に僕の姿はありませんでした。

この時は顔が真っ赤に恥ずかしい気持ちでいっぱいで、メールがなる度にビクビクしてました。

お陰でメンタルは強くなりました笑

僕は家では2倍速にして、当時映画を毎日2本観てました。観るといったら、往年の作品や主人公の感情の変化を捉えた作品を好んで勉強し、ヤクザ映画やVシネマは一切観ませんでした。

ところが2005年のGW初日。
TSUTAYAにビデオを借りにいったら、ある作品で足が止まりました。

それは『仁義なき戦い』。

「そう言えばこの映画の主人公、菅原文太ってよく知らないな?知ってると言えば、『千と千尋の神隠し』の“釜爺”の声優だな。」

と思った瞬間、そこにあった仁義なき戦いシリーズを全部借りていました。

衝撃的な暴力の描写。
女優さんの際立つ美しさ
脇を固める俳優さん

そして、「広能 昌三」演じる菅原文太。
劇中の姿に惚れて、映画を観た人はみんな広島弁を使い、角刈りにするのも納得がいくほど、僕自身魅了されました。

その何日か後に、下請けの社長の開催するバーベキューで、ある先輩との出逢いがありました。その先輩は今じゃどの作品にも引っ張りダコの役者さんで、名脇役として大活躍してます。

その先輩と仁義なき戦いの話で盛り上がり、先輩の師匠さんがオヤッサンの1番弟子という事もあり、更に話は盛り上がりました。

その後本格的に役者として歩もうと、7年お世話になった鳶の会社を退職しました。

するとその1ヶ月後、いきなりバーベキュー以来の先輩から電話がありました。

出るといきなり
「てっちゃん、オヤッサンの付き人やらないか?」
衝撃的な言葉でした。
まさに電気が走るとはこの事で、暫く言葉を失いましたが
「宜しくお願いします。」
と、勝手に言葉が出てました。

あの日のTSUTAYAでの衝動的な出来事が、まさかこの様に発展するとは思いもよらず、自分のヒキの強さに驚きました。

そして、2ヶ月後の初対面の日。
付き人の先輩に連れて行かれ、事務所マンションの前に立ちました。

ただでさえ汗っかきの自分が、この時ばかりは血の気を引いた様に汗が引いていました。
凄いビビっていました。

先輩が扉を開け挨拶をすると、すぐさまオヤッサンが現れました。

白い長袖の下着にステテコ姿。

「あっ!普通のおじいちゃんだ!」と一瞬安堵したのも束の間、御年72歳にも関わらず凄みのある声で

「貧乏人のツラしてるな。」
と一言だけ言って部屋に去っていきました。

それがオヤッサンとの初対面で初めて言葉を交わした瞬間でした。

僕にとってはとても深みがある一言でした。
一時代を築いた人間としてのカリスマ性がありました。

それから僕はオヤッサンが東京での仕事の時に帯同してました。

当時はラジオの仕事が多く、収録前までその日のゲストに関する本などを多く読んで、きちんと勉強した上でゲストを迎え入れていました。

僕が本を読むきっかけは、このオヤッサンの姿が大きく影響しています。

オヤッサンにとっては数いた付き人の一人で、僕のことは忘れてるかも知れません。

でも、僕は
・トビと呼ばれてたこと
・舞台が終わって去り際に、右肩を2度ポンポンと優しく叩いてくれたこと
・初対面の日に社内で2人っきりで会話したこと
・役者なんてヤクザな仕事を辞めろと言われたこと
・新年初日にスーツを着ていったら、烈火の如く激昂したこと

今でもしっかり覚えています。

すっかりお芝居の世界から離れ、テレビや映画で活躍する当時の仲間たちを観ると、僕は本当に素晴らしい時間と経験をさせてもらえたんだなと、振り返ることが出来ます。

何も功績もなく、人に何かを言える立場ではないですが、これだけは40代になったからハッキリと言えます。

やりたいことはやろう。
その時苦しいことも辛いことも、必ず自分の人生に深みをもたらす大切なことだったと思える日が、必ず訪れる。

あなたの悩みは、前に進んでいるから、その立場に居るから現れる。悩みではなく課題。
無責任に聞こえるかもしれないけど、10代20代の人たちは、口だけの先輩の言う事に振り回されず
ドンドンチャレンジして、オッサンたちを脅かす存在になってほしい。

と、今日は長文になりましたが、人生の中での一つのなんて事ない出来事や行動の後ろには、実はとんでもない出逢いや出来事が、自分の想像の範疇を超えて潜んでいることを、オヤッサンの命日を通してお伝えしたくなりました。

それでは、今年も残すところあとひと月。
くれぐれも体調に気を付けてください。



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