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【鉄道自分史】#8「近鉄スナックカーの思い出」

「スナックカー」と呼ばれる、近鉄でも一番多く(168両)作られ長く走っていた特急電車が2021年2月12日をもって定期運用を終えました。おそらく近畿・東海エリアの方は一度は見たり乗ったりしたことがあるのではないでしょうか。※製造期間1969年~1976年 運用期間1970年~2021年

大阪環状線のオレンジ色の103系と同じようにいつも走っている当たり前のような存在でした。そして、いつまでも走っているような気もしていました。「いつまでもあると思うななんとやら」と言いますが、鉄道車両もそうなんですがついいつまでもあるように思ってしまいます。

そんなスナックカーに初めて乗ったのは小学4年生の時でした。実はその頃はまだ鉄道趣味にそんに目覚めていなくて、兄と買った鉄道模型を円形のレールでぐるぐる走らせている程度でした。

大阪の長屋で育った私は、毎年家族旅行に行くほど裕福でもなくたまに父親の会社の旅行について行ったぐらいでした。父親も、なんやら暇無しで生野区のヘップ(婦人ものサンダル)の製造会社で営業としてよく働いていました。父自身は、営業ですので西は九州、東は東海地方までよく出張に行ってました。日曜に遊園地へ連れて行ってくれることもほとんど無く、連れて行ってくれるところと言えば同僚と行く競馬場か競艇場でした。おかげで、関西各地の競馬場の名前や競艇場の名前はよく覚えています。

そんな父でしたが何を思ったのか多分夏休みだったと思いますが、出張に兄と私を連れて行ってくれました。行きは新幹線帰りは近鉄ですから名古屋だったと思います。その時初めて新幹線にも近鉄特急にも乗ったわけです。今思うと、どこへも連れて行ってない私たちを新幹線に乗せようとしてくれたのだと思います。その後も、会社の旅行で四国へ飛行機でも行きました。多分あの下町で、4年生ぐらいで新幹線や飛行機に乗れた子どもは少なかったと思います。でも今思うと新幹線や飛行機よりも九州の蒸気機関車を見せに連れて行ってくれた方がよかったのにとは思っています。

それはさておき、その時初めて乗った新幹線よりも帰りの近鉄特急スナックカーの方がよく覚えています。なぜかというと、乗った後しばらくするとお姉さんが、おしぼりと熱い緑茶を持ってきてくれたのです。電車の中でそんなサービスがあるとは新幹線よりこちらの方が高級なんだなと子供心に思いました。

父とは大学までしか一緒に暮らしておらず、戦中の人間でしたので時々意見が合わないことがありましたし、68歳で亡くなりゆっくり話すこともなかったですが、名張に住むようになってからは大阪へ出る時にスナックカーを見るたびに父を思い出していました。

そんな思い出のスナックカーでしたので先日の引退はとても寂しく、中学時代に関西本線の蒸気機関車がなくなったときや環状線のオレンジ色の電車が走らなくなったときと同じぐらいの気持ちでした。

鉄道を好きになり、雑誌の鉄道コーナーを見たりポスターを集め出したのは、その次の年の小学5年生ぐらいからですが、もしかしたら自分でも気がつかないうちに父といったこの鉄道旅行が、鉄道趣味のきっかけになっていたのかも知れません。

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