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モノは増えたら増えただけ豊かさから遠ざかっていく

「家事か地獄か」


本を読んだ。

欲しい本があってブックオフに行った。
が、欲しかった本は無かった。
その代わりおすすめ本コーナーにあった本をタイトルに惹かれて何気なく立ち読みしたら、思いのほか導入が面白くてそのまま購入。

会社をやめて、収入が減り、今まで住んでいた部屋から出なければいけなくなった、というのが著者の生活を変える一番大きな出来事。

そこは狭いワンルーム。今まで住んでいた家の荷物なんて到底入らないので、必要最低限のものだけ残してすべて捨ててしまった。
また、震災の原発事故を見て「節電せなあかん」と思った著者は究極の節電としてあらゆる家電を手放した。

家電は買えば買うだけ便利になり、楽になると思っていた。
服は買えば買うだけオシャレになると思っていた。
食べ物は多彩に食べられることが贅沢だと思っていた。

でもそういった著者の価値観が、すべてひっくり返る。

家電を手放せば手放しただけ、家事が減っていった。
服を減らせば減らすだけ、自分らしくなっていった。
食べ物はごく限られたものだけを食べるからこそ感じられる幸せがあった。

テレビ、電子レンジ、掃除機、洗濯機、冷蔵庫、あらゆる家電を捨てる。
家電が無いからできなくなることを生活から削る。
洗濯物は手洗い出来るよう、最小限にする。
食べ物をストック出来ないから同じ食べ物を繰り返す。
最低限の服を、今日着る服に悩むことなく同じように着回す。

読めば読むだけ「そりゃ楽になるわ」と思わざるを得なかった。

私は1日の半分近くを家事に費やしている気がする。
主な家事は「炊飯」と「掃除」だ。
とにかく食事関連は大変だ。作るのも大変だけど材料を買うことも、食べたあとの食器を洗うことも全部大変で面倒だ。

それを毎日ご飯と味噌汁だけにするとしたら、どれだけの時間が出来ることだろう。
あくまでこの著者は独身一人暮らしなので、ここまでのことが出来るんだよな…とは思うものの、「ものを持たない」「余計な手間をかけない」シンプルライフにすることが明らかに楽であることは読めば読むだけ納得だった。

※ 本文内、網掛け部分は本からの引用文です

「便利なもの」を手放す


便利なものはまさにその便利さゆえにシンプルな物事をいつの間にか「オオゴト」にしてしまう特性があるのだ

便利な家電が増えれば、操作方法を覚えなければいけない。
調理家電を買うならば、レパートリーが増える。
レパートリーが増えるならば、買い物が複雑になるし、調味料や材料も料理によって増えていく。

掃除家電を買うならば、それのメンテナンスもしなければならない。
操作方法を覚えなければならない。

ものが増えればしまう場所も増える。
しまう場所が増えれば覚えなければいけない情報が増える。
覚えなければいけない情報が増えても、人が覚えられる情報には限りがある。

できることが増えるとしなきゃいけないことが増え、それがいつのまにか豊かなことのように感じるようになる…というようなことが書いていたのだが、本当に、確かにそうなのだ。

以前高機能の電子レンジを買ったんだけど(今は機能が少ない安いやつ)、高いレンジを買ったからには作れるものは作らねばと手のこんだものを色々作ったように思う。
使いこなせないスチームレンジ機能に後ろめたさを感じ、クリスマスになればせっかくの立派なオーブン機能で何か立派なチキンでも焼かなければと躍起になった。

オーブン機能がついていないレンジだったら、チキンを家で焼こうなんて思わずにどっかで買ってくる一択だったはずだ。

今のレンジは大した機能がついていないので、それを使って手の込んだ料理をしないことへの後ろめたさなんて微塵もない。

何でもそうだ。「これがあるならアレをやらなきゃ」が発生するのだ。

そしてそれをやらないでいると「これがあるのに何もやっていない」と、なぜかそんな自分を責めるようになってしまう。

「可能性」を捨てる


私は可能性を食べて生きていたのだと思う。
ああ美味しい最高と思った瞬間から、きっとまだ他にも最高に美味しいものがあるに違いないと夢見た。
そして確かに、世の中には無限に美味しいものが次々と登場するのだった。

私はいつだって、今ここにないものを追い求めること、そう「可能性」を追求することに忙しすぎて、足元に目を向ける余裕なんてこれっぽっちもなかったのである。
「ここにはないもの」ばかりを見てきた私。つまりは何も見てなかった私。そんな人間になぜ幸せが見つけられるというのだろう。

可能性を捨てることは、今ここにあるものの素晴らしさに気づくこと。
そこに気づくことさえ出来たなら、自分で自分の欲の奴隷になる必要なんて、つまりは大変な時間と労力をかけて家事を頑張る必要なんて全然ないのである。

この本で何度か出てくる「可能性」という言葉がとても印象に残っている。

便利なものは「これがあれば何か出来るかもしれない」を与えてくれる。
そして実際、出来ることが増える。
「もっと出来ることが増えたら豊かな暮らしになるに違いない」と思う。
でもその"もっと出来ることを増やす便利なもの"を手に入れるためにはお金が必要になる。
ああ、お金、お金、お金が足りない。
あの便利さのために、あの豊かさのために。

豊かさを手に入れるためにモノを増やし、やることを増やし、それらをこなしきれなくなり、時間がなくなり、無い時間でお金が無いことを嘆く。

この生活の一体どこが豊かだったのか、と思うのだ。

「可能性を捨てることは今ここにあるものの素晴らしさに気づくこと」とあるが、本当にそうだと思う。

私もコロナ禍を通して生活の仕方が大きく変わったのだが、特に大きく変わったのは休日の過ごし方だった。
家族みんなでどこかへ出かけないと行けないと思っていた。
出かけて想い出を作ることこそが「豊かさ」なのだと。

出かければお金がかかった。準備も大変だし、片付けも大変だった。
ぐったり疲れて帰ってきて、子どもが「たのしくなかった」と言おうものならがっかりした。『休み』なんて名ばかり。
どっと疲れることばかりだった。

「あなたたちを楽しませてあげようと思って頑張ったのに」

楽しい時間を過ごす可能性を、豊かな家族の時間のための可能性を私は「出かける」ことから見出していた。家にいたらその可能性はないのだと。

でもコロナ禍。出来るだけ不要不急の外出を控えるような世界となり、休日は家族で引きこもることが当たり前になった。
1日中パジャマでダラダラ、思いついたら思いついたときに何となくご飯を食べて、気まぐれにみんなでアニメなどを見る時間を過ごす。
ふと買ってきたコンビニのロールケーキひとつで、子どもたちはお祭り騒ぎで喜んだ。

私はその時間になんとも言えない満足感を感じていた。
なんだ、わざわざ疲れに出かけなくていいんじゃん。

家の庭でちょっぴり炭を起こしてウインナーを焼くだけでも十分すぎる1大イベントだった。
それまでは車で何時間もかけて移動し、何千円も払って施設を見て歩き、何万円もかけて宿泊したりしていた。
子どもは歩き疲れたと嘆き、せっかく来たんだから頑張って歩いてあちこち見ようよと声をかける。ホテルではしゃいで大声を出せば静かにしろと大人はイライラしてしまう。

そんな、ただ疲れを連れ帰ってくるような休日より、庭で気兼ねなく大声を出してウインナー焼く休日のほうがずっと楽しかった。

なんだ。これでいいんじゃん。
しかもお金もそんなに必要なくなった。
家族みんな着替えないから洗濯ものも減った。
ガソリン代も入場料も宿泊費もかからない休日。
ウインナーと炭代があれば御の字だ。

この本の中でも、基本をご飯と味噌汁にしてあると、ある日納豆を買えば「今日は納豆があるじゃん!」と気分が上がり、おかずを買ってこれたら「今日はごちそうだなぁ!」と気分が上がる。というような描写もあった。

日々の当たり前を安定させること。その当たり前に、ほんのり足す日がたまにあることだけで豊かさが得られる。次から次と足す必要なんてないのだ。

「今ここにあるもの」こそが幸せなんだと、私はコロナ禍で沢山気づいたところがある。
だからこそこの本で伝えていることは真理だと思う。

私もそうやって「ダラダラするのが当たり前」の休日を過ごすようになったら、夕飯のメニューが多少ローテーションしていても全然気にならなくなった。丼ものやカレーみたいな料理が毎週続いたってなんの後ろめたさもない。家族も別に文句も言わなかった。たまに手の込んだ料理を出せばパーティだ。

私はいったい何の「可能性」を追いかけて、週末は家族で外出することにこだわって、毎日違う献立を並べることにこだわっていたんだろうと思う。

そしてその「可能性」を追い続ける行為は、ただひたすらに疲弊する。

変わらない今という日常を繰り返すことと、変わらなければいけない今という日常を繰り返すことは全然ちがう。

変わらなくていい日々はとにかくゆったりしている。
のんびり歩くような生き方。

変わらなければいけない日々は、ずっと走っているようなものだ。
息切れしても「ゴールはまだずっと先なのだ」と。
どこにあるのか、見えもしないゴールに向かって走り続けるようなものだ。
そんなの疲れるに決まってるよ、ね。

「自分を飾る」必要はない


どこでもすっぴんで通しても、そもそも誰もそのことに気づいていない模様。少なくとも、最近地味だねとか、老けたねとか、元気ないねとか、そんなことは一度も言われたことはない。
結局、人は私が思うほど、私のことなんて気にしちゃいないのだ。
そして案外、自己イメージなんてものは、コレも自分が思うほど、化粧とか香水で作られているわけじゃなかったのかもしれない。

多くの人が断捨離に失敗するのは、なんだかんだ言って「服を捨てたくない」気持ちを捨てられないのである。だっていくら部屋がスッキリしても服を捨てたその先の人生は一体どうなるのか?

人生を輝かせたいと思って一生懸命服を手に入れてきたのだ。
ならばその先の人生は……普通に考えて、当然「輝く」気はしないのが普通であろう。

この「服を捨てたくない」気持ちを捨てられない、という言葉は刺さった。
私もなかなか服を捨てられない方なのだが、服自体への未練というよりは「買った時は高かったしなぁ…」とか「まだ着れそうだしいつか着るかなぁ…」みたいな思いで捨てられないものが多い。

とはいえ、自分の服はかなり減らしたのだ。昔から見たらかなり服は減ったと思う。季節ごとに着る服が変わること、毎日のローテーションを考えたら、だいぶいい感じの量になってきた気がする。
しかし本の中で「直接肌に触れる下着も"洗わなくて良い下着"に変えることで、洗濯の数そのものを減らす」という描写があって、その観点が…と思った。

洗わなくていい下着…(鱗がぽろり)

何となく「1日着たら服は洗う」というのが私の中にあって、毎日洗濯してたけど、そもそも何でそこまでして洗ってるんだっけ?
毎日洗濯すれば水道代がかかり、洗剤で環境は汚れ、布は傷んでいく。
洗うのは洗濯機にポイ、だけど、その後の「干す」作業や「畳んでしまう」作業がとにかく面倒くさい。つまり時間もかかる。

もし洗濯が一週間に一回で、かつ、洗う服の枚数が下着だけだとしたら、洗濯なんて大した家事ではない。

我が家の子どもたちは、一瞬着ただけの服を「やっぱ気分変わった」とか言ってすぐ着替えてそのへんにぽいっと投げるところがあるので、あちこちにクシャっと服がなげてある。
それも「着たなら洗う」というスタンスでやっていたもんだから、そりゃもう洗濯物の量が多かったのだ。でも「汚れてない」「臭ってない」なら、別にそのまままたタンスにしまったって構わなかったのかもしれん。

そんな何度も着てないのにすぐ服が毛玉だらけになったのも、洗いすぎだったんじゃないのか。ましてや子どもなんて小さいうちはさほど汗臭くなんてならない。食べこぼしたりどろんこになったりしていないなら、そんな洗いまくる必要なんてなかったかもしれない。

服の数も多いから「やっぱ気分変わった」が発生するわけで、子どもの服も数を絞った方がいいのかも…そもそも、お下がりで本人が選んだわけでもない服が沢山あって、それらがまだ「きれいで着れる」という「可能性」を秘めているがためにタンスを圧迫している現実。

でも子どもは案外、沢山服を持っていても「お気に入り」の服を、ほぼ毎日着たがる。

そういえば自分が子供の頃はそんな毎日服を洗濯されてなかった気がする…考えてみたら、中学高校の制服なんて本当にめったに洗わないではないか。

服が増えると選択が増え、洗濯が増える。
時間が減り、お金が減り、環境が汚れ、服は傷む。

「服を捨てたくない」の気持ちを無視してみたら、タンスの中にある服で「多分この先ずっと袖を通さないであろうが、まだまだ着れそうだから捨てたくない」で残っていた服を捨てる判断が出来た。
こどもの服も「きれいだし、誰かが欲しがるかも」でとっておいた、我が子が着れなくなったサイズの服はもうゴミ袋に突っ込んだ。リサイクルショップに持ち込むことも考えたが、リサイクルショップに溢れかえる服ももう何がなんだかわからないではないか。ブランドやキャラ物でない限りは、選ぶ方も疲れてしまう。持っていっても二束三文だ。

「まだきれいで着られる」なんてお下がり服のステータスとしてさほど重要なポイントではない。
というわけで、たとえ着られるものだとしても、子どもたちが全く袖を通そうとしない服は全部ゴミ袋に突っ込んだ。

服のスペースに隙間が出来た。着やすい服、お気に入りの服が選びやすくなった。
今まではみちみちに詰まっていたために探しづらく、タンスの中が全部ひっくり返されることがあったけど、そういうこともなくなった。

ああ、可能性よ。私が君を捨てきれなかったために、余計な仕事が増えて時間がなくなっていたんだ。

そもそもそんなに増やしてしまったことが悪かったのだ。
増やすときは簡単だが、減らすことは案外むずかしい。
結婚より離婚が難しいと言われることとどこか似ているような気がする。

今度から、増やすときに「本当にこれを増やすべきか」を熟考してから増やすようにしようと心に決めた。勢いだけで増やして、捨てるときは罪の意識に苛まれるなんて何をやっているのか。

化粧についても、そうだ。
子どもがある日「お母さんはお化粧しないほうがいい」と言い出し、私が化粧することを止めるようになってから化粧していなかった。眉毛すらほとんど書くことはない。
が、化粧してないからって別に生活に支障が出たことはない。

「このお母さん地味だなぁ」ってもしかしたら思われてるかもしれないけど、それがどうかしたのか?
そもそも私も、会う相手がしっかり化粧してるからどう、とか、化粧してないからどう…みたいに考えたことなんてなかった。

「女性が外出時化粧しないなんて…」と考える人も勿論いるだろうが、私自身がそういう人と別に仲良くなりたいと思っていないからそれも別に構わない。そういう人は外出時しっかりお化粧する方同士で仲良くすればいいだけの話なのだ。

それより地のお肌がきれいだなぁとか、そういう方が私としてはよっぽど印象に残るわけだけども、化粧をするというのは基本的にあまり肌にいいことではないし、やることが多くなればなるだけ、お肌のケアというのは疎かになったりするものなんだよな。

私は化粧をやめて、草に興味を持つようになった。
草を食べたりエキスをお風呂に入れたりするようになっているけど、それは何か変化が起こっているのだろうか。
それもよくわからないけど、まぁ、これは楽しいからいいのだ。

そうだ。何よりも「人からどう見られるか」じゃなく「自分が楽しい」ことが大切なんだと思う。人からキレイに見えるようにと取り繕うために必要なのが「化粧」と「服」だとして、人からどう見られるかという思いを捨ててしまったら別に化粧も服もどうだっていい。楽なのがいい。

化粧や服が「楽しい」人はやったらいいんだと思う。
でも「いつでも素敵な人に見られたい」という気持ちだけで多彩な服を毎年買い揃えたり、朝から化粧に時間をかけている人がいるとしたら、その時間は「自分がすきなこと」に回すほうがきっとずっと楽しい。

私が草についてキラキラ語っているとき、長女がたまに幸せそうに笑って「おかあさんはかわいいねぇ」と言う。
たのしいこと、すきなことをやっていることは、どんな化粧や服よりもその人を輝かせるんじゃないだろうかと最近思っている。

「モノは有限だが、自分の可能性は無限」


モノが与えてくれるかもしれない可能性を捨てることで、自分の中の新たな可能性を掘り起こす。それは生まれ変わるような体験だ。
どん詰まりのように見えていた世界に確実に風穴を開け、自分の価値を再発見する行為だ。

少なくとも私はそのことを経て、自分の人生を迷いなく歩み始めることができた。荷物を減らし、身軽になってどこまでも歩んでいく。

モノは有限だが、自分の可能性は無限である。

一度手に入れたものを手放すのは少し勇気がいる。
それはやっぱりこの本で書いている通り「モノが与えてくれるかもしれない可能性」を信じているからに他ならない。

ちなみに我が家は「炊飯器」がない。
7年ほど前から圧力鍋やフライパンで米を炊いている。
それでもしばらくは、使わずに埃をかぶった炊飯器が台所に置いてあった。

「炊飯器を使った簡単料理とかあるし…壊れてるわけじゃないし…そういうのに使えるかもよ?」
「どっかで"使える炊飯器"を探している人がいるかもよ?」

その時のわたしは、可能性を捨てきれていなかった。
2年ぐらい全くその炊飯器に触れなかった現実と向き合い、そんな長期間使っていない炊飯器で料理をする日が来るか?欲しがる人がいるか?という思いと向き合って、ある日、それを捨てた。
何ひとつ困らなかったどころか、炊飯器を置いていた場所がスッキリ空いて台所が使いやすくなった。

圧力鍋でご飯を炊くことが当たり前になった頃、胆振東部地震が起こった。北海道全域が停電になった、あの地震だ。
朝起きて、テレビが点かなかった。
冷蔵庫の中が生ぬるかった。
ガスは通っていたので、米は炊けた。
米はそこそこ残っていたので、最低限、しばらく困ることはなさそうだと思った。

おにぎりを沢山握って、ウインナーと卵焼きを焼いた。
腐っても困るからとあるだけ全部焼いた。豪華なお弁当が出来た。

そして、まだ小さかった子どもたちを連れて公園に出かけた。
公園に行く途中の道は「電気が無くなる!色々買っておかないと!」とどこかへ行こうとする人で大渋滞になっていた。
なぜ渋滞になるかと言えば、信号が動いていなかったからだ。交差点は各々の判断だけで進む場になり、どうにもならなくなっていた。

私と子どもたちは呑気におにぎりを入れたリュックを背負い、てくてく歩きながらそれを見ていた。

炊飯器でしかお米を炊けない家では、米はあっても炊けない状況にもなったのではないだろうか。スイッチひとつでお米が炊ける便利さは、音や匂いでお米を炊く感覚を失わせていく。
モノを手放した分だけ、自力で生きる可能性は広がるし、本の中でも書かれていたが、自力で生きる可能性を持っていると非常時に慌てることはなくなるんだとおもう。

慌てた人は慌ててお店に駆け込む。
最近はお店にお米が並ぶようになったけど、いっときお米が全く無くなったのも報道が煽る米不足に「もしかしてお米がこの先手に入らないかも」と不安になった人々が買い占めたからだろう。

我が家は最低限の量の米を定期配達にしているので、子どもたちには米を出し、自分は庭に植えた紫蘇をてんこ盛りにしたうどんや、そこらで摘んだ草を混ぜ込んだお好み焼きを食べて米の消費を抑えて過ごした。
十分満足な暮らしだった。

モノがあるということは「有る」ことに依存するということだ。
モノがないということは「無い」中から可能性を探すことだ。

自分自身が出来ることが増やすためには、モノに依存しない生活をしていくことだ。モノはあればあるだけ「もっと」「まだ足りない」という不安を煽る。
無いなら無いだけ「無い世界をどう楽しむか」という気持ちが生まれる。

私が野草にハマっていることも、庭に生えた野草を鉢に移植して冬の間も楽しもうとしていることも、もしかすると非常時を楽しむ一つの要素になるのではないかと思う。
野菜が買えなくなったとしても野草を食べられる知識と経験は自分の可能性を広げていく。
キレイに整った、丁寧に育てられた野菜を食べないと生きていけないわけじゃない。ぶっちゃけ、死なないなら何を食べたっていいのだ。

美味しい大根が手に入るだけで感動出来る世界線がそこにはある。
あることが当たり前ではないという感謝もそこに生まれる。
それってすごく豊かなことだと思う。

「ない」ことこそが自分らしさを作り出していくのかもしれない…と、この本を読んで思った。

ミニマリストとは一線を引いている印象


家電や服など多くのものを手放したこの生活はいわゆるミニマリストというやつだろう。だが、この著者からは昨今流行りのミニマリストとは少し違ったものを感じた。
ミニマリストというよりは究極のサバイバルみたいな感じだ。サバイバルだけど、その野性味を楽しんでいるという感じ。

でもこれはやっぱり「独身だから」やれるものでもあると思う。
「これは独り身だからやれるんですけどね!」と講演会でもお話されているとのこと。これはとても大事だと思う。

ものが少ない生活はいい!モノを手放してシンプルな生活を!!と発信しているミニマリストに影響を受けて、生活をどんどんミニマムにしている人というのは少なくない。とはいえ、親の思いだけで子どもがそれに巻き込まれてしまうと、子どもの本心が少し気になるというのが私の本音だった。

ゲームやジャンクフードを一切得られなかった子ども時代を過ごした人は、大人になってからその反動で狂ったようにゲームをしたりジャンクフードを食べる人になることがあると聞いたことがある。

究極すぎるミニマリスト生活を家族にも強いてしまうことは、いつかその子がミニマリストの逆となるマキシマリストになるリスクもはらんでいると思う。だから私はこの本のような生活をしたいなぁとは思ったが、ここまでやるつもりも毛頭ない。

たとえば長女には超お気に入りのボロボロのぬいぐるみがある。お気に入りの毛布やタオルケットもある。片付けても片付けても、それらは部屋の中央にいつの間にか鎮座している。
ミニマリストであれば捨てたいものであることは間違いないが、私が作りたい生活のためにこれらのものを捨てることは、子どものアイデンティティの否定にもなりかねないとも思う。

子どもから手が離れる日が来たら、夫と話し合いながら「毎日ごはんと味噌汁だけの生活にしたいんだけどどうですかね」と楽しめたらいい。
本の中でも書かれていたが、やることが究極にシンプルになっていると、脳が認知症の状態になっていても生活に変化は起こらないのだそうだ。
シンプルライフは脳の劣化に合わせて進めていけばいいのだ。

つまりこの本はある意味、少しずつ生活をコンパクトにしていくための、究極の終活本なのではないか…とも思ったりする。

とはいえ、モノが多いことは疲れることなので、せめて自分の持ち物はどんどん減らしていこう!と思った。

本を読み終えて、早速「多分もう読み返さないな」と思った本を次々とメルカリに出してみた。読みたいと思う人がどんどん買ってくれた。
本棚にゆとりが出来た。10冊の本を売り、その売上で1冊の本を買った。
10冊読んだ本の中身で大切なものは多分ちゃんと頭の中に残っている。

新しい1冊はきっとまた新しい知識を自分の中に与えてくれる。

9冊分の空いたスペースの代わりに、新しい可能性が生まれる喜び。

服も沢山捨てた。書類や、何かよくわからない便利グッズも。
「いつか誰かが使うかも」なんて可能性を考えている限り、そこに新しい可能性を生み出すスペースは生まれない。
「もったいない」なんて言っていても、それを引き取ってくれる存在が現れるまでそれを持ち続ける生活は疲れてしまう。

むやみに買ってしまってごめんなさい、これからは本当に必要なものだけ買っていきますとモノに語りつつ、沢山のものを処分した。

必要なモノとは一体何か。
どこまでそれは減らすことが出来るのか。
家族と楽しめる範囲で少しずつ、少しずつ生活にゆとりを。

ない生活の中から豊かさを見つけ出せる楽しみを教えてくれる本。

皆様も、そんな『モノを手放す豊かさ』手に入れてみませんか?



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