雨国の姫
遠くで自分を罵る声がする。
耳はその声を聴かぬようにする。
どんなに身体を、心を痛めつけられても
私は涙を流さなくなった。
泣こうと思っても、もう泣けない。
****
私は『雨国』の姫。
20年に一度生まれる雨の巫女。
大雨が降る日に産まれ、額に雫の痣を持つ。
新たな巫女は姫となり、国民はその誕生を喜び、先代の巫女は力を失う。
力を失ったらそこからは普通の国民に戻るのだ。
姫として宮に住まう間、望んだものは手に入る。
だが姫であることに、自由も、幸福も、ありはしない。
国に雨を降らせるために泣くこと。
私の存在価値。
それに気づいた日から、私は泣けなくなった。
***
「姫様、もう半年以上涙を流しておりませぬ」
「どうか、どうにか涙を」
その日は14歳の誕生日だった。
家臣達が神妙な顔で私を見る。
私が泣かない限り国には雨が降らない。
「川は枯れ、作物も育たず…家畜は死んでいきます」
「町では水を巡って争いが起こっております」
「…私にとってそんなもの、どうでも良い」
私は、懇願する周囲の大人を冷めた目で睨みつけた。
別に誰が死のうと飢えようと、私には関係ない。
泣くことだけを望まれて生きる自分の気持ちが、他の人間にわかるか。
自分が産まれたその日にまで、泣くことを強要される私の気持ちが。
もう私の涙は国土同様、枯れ果てた。
***
父が、馬を打つ短い鞭を持って私の前に現れた。
まさかと思ったが、私の肩をその鞭で打つ。
父は叫んだ。
「このままでは国が枯れてしまう…。
もはやこれしか…!!」
「王!おやめ下さい!」
「私以外に姫に鞭を打てる者などおらぬ!止めるな!」
家臣たちが必死で王を羽交い締めにしている。
「姫!王だってやりたくてこんな事をしているのではございませぬ」
「最愛の娘を鞭で打つなど、どれだけ辛いことか」
「どうか、どうか涙を」
…何という茶番だ。
思わず笑いがこぼれた。
笑った私を、その場にいる大人たちがぎょっとした顔をして見る。
「…最愛?」
笑うことより、涙を流す事を望む。
この世に生まれ落ちたことを祝福するはずの日に、その娘に鞭を打つ。
最愛の筈がないだろう。
私は国のための、ただの道具だ。
***
たとえば、私が死んだら。
死んだ直後に豪雨が降って、即座に巫女が産まれるのだろうか。
だが、私のような不幸な娘が生まれ続けるこの国の不幸を、私の代で断ち切れてしまえたら。
そう、私はこのまま生きて国土を枯らすのだ。
生きたいものは他の土地に移り住めば良い。
こんな国、枯れてなくなってしまえばいい。
宮の中は息苦しかった。
顔を合わせる相手が皆、泣かせよう、泣かせようと悲しい話を言って聞かせる。
時に真っ向から罵声を浴びせ、
時に聴こえるようにささやきあう。
視線が刺さるように痛い。
「涙を流せぬ巫女の食事などどうして作らねばならぬ」
「国民から水を奪う存在が水を飲むなど」
「20歳を待たずして次の巫女が産まれないものか」
「そうしたらあの女をすぐに宮から叩き出すものを」
目を瞑るように、耳も瞑る事が出来れば良かった。
聞きたくない言葉たちが、余計に私の心を枯らしていく。
こんな奴らのために、私は涙を流す気などない。
息苦しさに耐えかねて、私はそっと宮から抜け出した。
巫女の顔を外部に知られることを防ぐために私は宮の中だけで育てられた。
今まで外に興味などなかったが、今日は、何故だかごく自然に、外へ出たいと思った。
今まで出ようとする素振りもなかったことからか、特に警備のようなものも見えなかった。私はあまりにアッサリと宮の外に出た。
誕生日という、自分にとって少しだけ特別な日。
あの空間にいるのが嫌で仕方なかった。
****
始めて見る町の景色は思った以上にひどかった。
食べるものを、飲むものを求めて、争う人々。
力弱き母親が子どものために大切に少しずつ溜めていたであろう食料を、力ずくで奪っていく者を見た。
老人が若かりし頃に掘ったという大切な井戸から、水が枯れるまで組み上げていく者を見た。
幼い子どもが、病気の兄弟のためにと、盗みを働くところを見た。
あえて見ようとせずとも、見える世界がすべてそうだった。
目に入る世界すべてが争いと略奪で満ちていた。
耳を瞑ることが出来たとしても、目は瞑ることが出来るとしても、現実は変わりはしない。
私が涙さえ流すことが出来たら、人々はこんな生活をしなくても良くなるのだろうか。
少しだけ胸が苦しくなった。
それでも、涙は出てこなかった。
***
「ねえちゃん、随分いい服着てるな」
「金持ちの娘さんかい」
2人の男が、私の身なりを見て話しかけてきた。
「しっかり食ってますって顔してやがる」
「何か食い物持ってないのかよ、出せよ」
目がまともじゃない。
身につけていた装飾品を差し出してその場を逃れようとしたがダメだった。
「食えないものを渡されてもどうしようもないんだよ」
「水だ!食い物だ!家から持って来い」
飢えは人を狂わせる。
宮の人々から聞いてはいたが、初めてその世界を目の当たりにした。
当たり前に出されていた食事も、毎日当たり前に飲んでいた水も、全く当たり前のものではなかったのだ。
”涙を流せぬ巫女の食事などどうして作らねばならぬ”
”国民から水を奪う存在が水を飲むなど”
宮で耳に入った言葉たちが頭の中で繰り返される。
涙を流せぬ私に、本来食べ物も飲み物も口に入れる権利などなかったのだ。
誰もが飢えている中、いつか涙を流してくれると希望を込めて。
自分たちも食べられない状況で、食事を、水を差し出していた者たちの気持ちなど、私は考えようともしなかった。
正気でないものを目前に、恐怖で身がすくむ。
「おやめなさい」
男たちの後ろからよく通る声がした。
張り詰めた空気が緩む。
「これをあげるからそのお嬢さんを離しなさい」
男は大きな木の実を3つ持っていた。
狂った目をして私を見ていた男たちは、言葉を発する間もなくそれを奪い取るとその場でむさぼりついた。
「…今のうちに」
男は私の手を引いて、人目の少ない通りへと連れて行った。
「良いところのお嬢さんかな、今日はどうしてこんなところに?
町の中をそんなきれいな格好して歩いていたら襲われて当然だよ」
男は私の顔を見て微笑んだ。
「ごめんなさい…あなたの…大切な食べ物が…
きっとこれから誰かと食べるためのものだったんでしょう」
あれは、この人にとってきっと大切な食料だ。
助けて貰ったことよりも、それを誰とも知らない女のために失わせてしまった事が申し訳なかった。
「いいんだよ。本当は娘の誕生日を家族で祝うために用意したものだった。
お嬢さんが娘と同じぐらいの年頃だったからつい助けてしまった。
祝う相手はいないのに、毎年家でお祝いだけはしていてね。
いつもはもっと良いものなんだが、今年はさすがに用意出来なかった」
私は思わず聞いた。
「祝う相手がいない…?」
男は少し寂しそうに答えた。
「…私の娘は、14年前のこの日、大雨の中産まれてきた。
今、この国に雨が降らないのは私の娘のせいなんだよ」
背中に鳥肌が走る。
「…そのお話、詳しく聞かせて下さい」
私は男の腕を思わず掴んでいた。
男は驚いた顔をして、静かに語り始めた。
「あの日は急に妻の陣痛が始まってね。雨の中医者を背負って走った」
「難産だった。ようやく産まれて産声を上げた娘の顔を見て、涙がこぼれたよ。娘の額にハッキリと巫女の痣があったから」
「先代巫女の痣が消え、大雨が降る。
それだけで、巫女の代が変わったことはわかってしまう。
その日に産まれた赤子を探すため、国中の家に役人が回った」
………この人は。
「ダメだとわかっていたけれど、私と妻は娘を抱いて町から逃げようとした。でも無理だった。娘が泣けば泣くほど、雨は降る。
産まれたばかりの赤子と、産後で体力が落ちた妻を連れて逃げるにはあまりに条件が悪すぎた。すぐに役人たちに見つかってしまった」
「本当は娘を姫になんてさせたくなかった。この子は私達の娘だと」
ぽつり。
顔に何か冷たいものが当たった気がした。
「でも、王が、地面に頭をこすりつけて私達に頼んできたんだ。
私は国のために、この娘を大切に守らなければならない。
国土に降る雨を操る巫女が、一般の家庭で育つことにどれだけの危険があろうか。
非礼な願いとはわかっている。だがこの娘を姫として宮で育てることを、どうか許して欲しい、と」
「混乱の元になるからと、私達の存在を娘に知らせる事は許されなかった。
せめてもの代わりに私達夫婦は毎年誕生日に宮の祝い膳を3人分家に届けてもらう事を約束した。
一緒にいられなくても、この日を共に祝うふりだけでもしてあげたかった。待ち望んだ命が産まれ落ちた直後に、娘を手放さなければならない我々の想いを、娘の成長を見られぬ寂しさを、誰かに忘れないでいて欲しかった。
今年は、作物があまりに無くて祝い膳を作る余裕はなかったそうだ。
その代わりが、さっきの木の実だった。
先程行った宮で王は私を見て謝罪したよ。枯れていく国土を気にしすぎて、今日が娘の誕生日だったことすら忘れていたと。
…命を預かる、大切な約束を、忘れていたと」
私が産まれたときに交わされた約束。
そして、今も続く約束。
二人の父親の思い。
気づけば空からは大粒の雨が降り注いでいた。
「……ずっと泣けなくて…
…ごめんなさい……」
私は痣を隠していた額の装飾品を外して、男に額を見せた。
遠くで歓喜の声がする。
「雨だ!雨だ!」
「姫が泣いたぞ!!争いをやめよ!」
「涙の雨じゃ!実りの季節がくるぞ」
男…父は、大きく目を見開いて私を見たあと、強く抱きしめた。
「…14歳か、大きくなった」
「あの日泣くだけしか出来なかった赤子だった娘が、随分と泣かずにいる。一体どうしているのか、ずっと気にかけていたんだよ」
自分が泣いていることがわからなくなるほどに、雨は激しく降り注いだ。
雨音が嗚咽をかき消していった。
「…風邪を引いてしまう。宮まで送ろう」
寂しそうに笑って、父は言う。
「嫌だ…私、本当のお父さんとお母さんのところに戻りたい」
「宮で私には泣くことしか求められていない。それが辛い」
父は、私の肩をそっと抱いた。
「…ひとつでも自分にしか出来ない使命があるなんて、むしろ幸せなことだと思わないか」
「私だって本当は君を家に連れていきたい。
でも、もし君の力を悪用しようという人間が現れたとき、貧弱な私達の力では君を守りきれない。
君の持つ使命はそれほど偉大なものなんだよ…スバル」
父が、私に付けた名を呼んだ。
「澄晴」
「雲ひとつ無く澄み渡る空」を意味する言葉をあてた名。
何故あえて自分がこの名なのか。
まるで呪いのようだと考えていた。
「産まれる前から考えていた名だった。
まさか雨の巫女が産まれるとは思っていなかった。
でも、雨の巫女は晴れの使者だと、私は思うんだよ。
見てご覧、雨を喜ぶ人々の顔を」
半年ぶりの雨の中、ずぶ濡れになりながら踊る人がいた。
空から降り注ぐ雨粒を、直接飲もうと口を大きくあける人がいた。
乾ききった大地に注ぐ雨を、そこにいる人々が大喜びで受け止めていた。
その笑顔は、誰もが晴れやかだった。
「スバル、涙が出るのは悲しいときだけじゃない。
心が豊かになれば、嬉しいときも、楽しいときも、幸せを感じたときも涙は出てくるものだよ。
姫の心が豊かになることで国も豊かになるなんて素晴らしいじゃないか。
自分の娘がその使命を負っていることを、私は心から誇りに思っている。
これからも毎年、私と妻はこの日に君が産まれた事を祝おう。
雨が降れば君が生きているのだと笑おう。
巫女の力を失った時には、宮から戻っておいで。
きっと王も許して下さる。
今は、どうか使命を果たすまで安全なところにいて欲しい」
私は、父の願いを受け入れた。
宮に戻ると、ずぶ濡れになった私を、もう一人の父が抱きしめた。
もう一人の父もまた、涙を流した。
何度も何度も謝罪の言葉を口にした。
「…ただいま、おとうさん」
私はただ、それだけ答えた。
その日は、一晩中つめたい雨が降った。
枯れた大地に静かに水が染み込んでいった。
***
「あの日から姫は、よう泣くようになりましたな」
「逆に、ちょっと降らせすぎかもしれん」
大人たちが笑った。
和やかな空気の中、私は笑いながら涙を浮かべた。
「だって、私が泣くことでみんなが笑ってくれることが、嬉しくて仕方がないんだもの」
豊かな土地を取り戻した雨国に、今日も柔らかな雨が降る。
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