ゆらぎの記録2️⃣

1️⃣はプライベートなお話も含んでいたので限定公開でしたが、こっちは公開です。

ここ最近、もうずっと価値観ゆらぎ続けてるから、揺らいでることをメモしておく。

何かどうでもいいことなんだけど、あれ?ってなっていることたち。


食べること


子どもたちは朝からおやつを食べたがる。
「おやつ食べていい?」と聞かれたときの私の返事は「ご飯を食べてから」だったりする。

子どもたちは率先してご飯を食べたがらない。
何でもいいからとりあえず食べてくれ!と、シスコーンに牛乳かけたやつとか、ミロとか、ヨーグルトにバナナ入れたやつとか、はちみつをかけたパンだとか、おやつに片足突っ込んだようなものが朝食になることがしばしばある。

何となく、どれも微妙に栄養があるものを入れているんだ。
シスコーンとかミロとかって栄養価あるんだよね。ね?

でも、ミロを飲んで「じゃ、朝ごはん食べたからデザートのおやつ食べるね」って言われると、ええ?ミロって、すでにほぼほぼおやつなんですけど。となる。

いやそもそも、そんな本人に「食べたい」という欲求がないときにご飯を強要しても仕方無くないか?とも思う。
でもおやつ食べたがるってことは食べたいんですやん、ともなる。

お腹がすくとは。おやつとは。
そもそも、ご飯を食べたらおやつ食べていいって条件もさ、食べ過ぎじゃん。お腹が満足するまで食べてからおやつ食べたら、おやつが余分じゃん。

でもご飯もまともに食べてないのに、おやつ食べるのもおかしいじゃん。

しかし子どもたちが”パン食べたくないからおやつを食べればいいじゃない”みたいなノリで言うもんで、マリーアントワネットかお前ら!と思わず言ってしまった。

マリーアントワネットって何?と言われたのでその言葉を説明。

「論点そこじゃないよね」と長女のツッコミ。

わかってるじゃねぇか。

パンやご飯を食べたくないからおやつを食べるっていうのも、何か論点違うんだよなぁ。

いや、違わなくない?
そもそも小麦食って、実はあまり食べ過ぎるの良くないって言うよね。

小麦のパンを毎食食べるぐらいなら、実はポテトチップス食べるほうがいいのか?

先日、夕飯でじゃがいもの天ぷら出したんですよ。
塩ふって食べたら、ほぼほぼ風味がポテトチップスでね。
子どもたち「これ、ポテチ味だ!美味しい美味しい」ってめっちゃ食べたんですよ。

それで「今日は野菜をいっぱい食べてるなぁ」と次女が誇らしげに言うわけですけど、でも、ポテトチップスなんだよなぁ!!
無添加って意味ではいいのかもしれないけど、そんなら無添加のちょっと高いポテチをご飯代わりにするのはありですか?

何か子どもたちに「あれはいい、これはだめ」って言いながら自分の発言の矛盾にざわついて、なにが正しいのかわかんなくなっている。

でも口内炎とか口角炎とか出てるから、やっぱり野菜食ってくれ。

芋以外の野菜食ってくれ。ほら、ビタミンとか。

ミロにビタミン入ってるって?シスコーンも?

ではミロやシスコーンとおやつの違いとは栄養価なのか。

おやつも栄養あるやつならいいってこと?
こんにゃくゼリーはお腹をキレイにしてくれるから食べたほうがいいですか?

朝、コンビニに食パン買いに行こうとしたら付いてくるっていうから連れて行った。

「朝ごはんで食べたいものあったら持ってきな」って言ったら次女が取ってきたもの。

今日の次女の朝ごはんはウィダーinゼリーの鉄分。
ぶどう味。美味しいよね。


…ゼリーじゃん!!!!
おやつじゃん!!!

いや鉄分大事だわ!!!

私も生理来たらむしろ率先して飲んでるわ(家にストックがあるせいで気に入ってしまったんだよな)


あーーー!!
もうわかんねー!!

日々揺らいでます。



学ぶこと


勉強って何なんでしょうね。

国語算数理科社会。

社会に出て役に立つか役に立たないかって基準だけで考えると、大半の勉強って必要ないよな、と思う。
ただ「知識を入れるのたのしー!」「わかること増えるってうれしー!」っていう状態を味わう事自体はすごく良いことだと思っていて、そういう勉強ならしてほしいと思う。

で、大抵ね。
私の中では、それ、国語算数理科社会っていう枠から外れたところにあるんだよね。
学びって、楽しいから身につくと思うんですよね。

テストのためとか、受験のためとか、進学のためとか、そんな理由で勉強するのってぜんっぜん楽しくないと思うんですよね。
いや、私は楽しかった質ですけどね。ちゃんと点数で自分の努力が結果として現れることに達成感とか感じる性格なので。

でも長女は点数つけられるといちいち落ち込むし、そういう子にテストのため、受験のため、進学のためって価値観で勉強をさせようとするのは全く無意味、むしろ悪影響と思っている。

で、別に「知識が増える」って意味だけだったら、ゲームの知識だろうがなんだろうが全然構わないと思ってるんですよね。

努力することで結果が出ることを知るのは勉強じゃなくてゲームでもいいと思うんですよね。

学ぶものは明確な知識じゃなくて、感覚的なものでもいいと思うんですよね。

こないだ、長女と散歩していて、紅葉の綺麗さはどのあたりに魅力を感じるかについて熱く語り合ったんですよ。
私は、青空と赤い葉とまだ青い葉と、その中間の黄色い葉の色の組み合わせがすごく好きなんだよな!って言ったんだけど、長女は木漏れ日がいいって言うんですよね。光で透けてる葉と重なってる葉との雰囲気とか。

で、お互い、自分がいいと思う角度で写真撮りっこして、全然違う写真が撮れたんですよね。悔しいけど娘の写真、私はめっちゃ好きだった。


私の写真



長女の写真

そのあと、白樺について私の知識を披

露したんですよね。

知ってます?白樺にある、黒い筋の模様は、全て「枝が生えていた場所」に残ることを。白樺は『陽樹』と言って、太陽の光が大好きな樹種なんです。

上で枝を張ると下の方の枝は太陽の光を受けられないから高く伸びれば伸びるほど下の枝は落ちるんだけども、落ちたところに模様が残るんです。

(ちなみに太くしっかりしたミズナラとかは陰樹と言って、あんまりバリバリに太陽の光が当たるところでは育つことが出来ないのだよ)

そしたら「マイクラで白樺が大きく育つと模様が増える!そうだったのか!」ってすごく納得してたんですよ。
ゲームと現実が繋がる瞬間にも学びってあるんだよな。

こうやって子どもに知識を話せることというのは、私が本とか読んで勉強した結果でもあり、やっぱりそうやって学ぶ経験もすごく大事。

ただそういう知識って学校で習うものとはやっぱり外れている。

世間一般の人がみんな知っていることを知らず、でも、違うものを知っている。それでもいいと思うけど。本当に大丈夫だろうかというゆらぎもある。

たまにはドリルとか買ってきて、計算とかさせたほうがいいのかしらとか。
でも計算なんぞ、この先の時代、人間がやらなくても問題ない世界になっていくとしか思えないけどな。

植物や動物や、食べ物や光とか。そういう、生きた知識を持ってる方が豊かな人生になるんじゃないかと思っている。

私は最近よく本を読んでるけど、その、読んだ本の感想を伝えて世界観を共有したり、その知識を子どもに伝えたりするのが私なりの勉強だなと思ったりもしています。

国語算数理科社会は、ほとんど教えないけどね。

果たしてそれは、ちゃんとした学びなんだろうか。
なんて思ったりもする。

いやいや、そもそも『ちゃんとした学び』ってなんやねん。

ゆらぎ、ゆらぐ。

私は、学校に行く理由は勉強よりも人。
誰かと話して、誰かと遊んで、誰かとご飯を食べること。

人といるって楽しいっていうこと。

楽しいことが学びだと思うのです。

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