空き教室と仮眠
GW最終日はお菓子ではなく自分の弁当の作り置きを大量に作りました。
どうも、モノです。
明日からまた仕事じゃー
復学初日にクマ先生にワガママを言ってしまったことを帰宅してしこたま後悔した。
この日を無事に迎えられるように、初日を無事に終えられるようにしてくれたのはクマ先生なのに。
そんなクマ先生にあろうことかワガママを言ってしまった。自分最低かよ。
そんなことを考えながら2日目の投稿を迎えた。
この日は保健室には行かず、到着するとそのまま教室へ向かった。
初日よりも早い時間からみんなと教室にいられたおかげで久しぶりに午前の20分休み時間を味わった。
この頃は学年全体でドッジボールが流行ってると色んな子から聞いていた。
20分休み時間のチャイムが鳴るやいなやクラスの半分以上がグラウンドへ走っていった。
友達数人が『モノちゃんも行こ!』と手を引いて連れて行ってくれようとしていた時だった。
クマ先生がストップをかけた。
グラウンドは全学年が同時に使うので危険かもという理由でストップをかけたのだ。
友達はどうしても私を連れていきたいと言ってくれた。
じゃあ、試しにということで
母とクマ先生同行のもの1年半ぶりのグラウンドへ出た。
1年生の時は何も感じずにグラウンドへ走って出ていきブランコに乗ったりジャングルジムに登ったりしていたのに、1年半が経ち同じようにグラウンドへ出て感じたのは 戦場じゃないか ということだ。
四方八方からすごい勢いで飛んでくるボール
風のように爆速で走る高学年
私を真ん中にして母とクマ先生と友達が盾となってはくれたが、それでも危険なことは私でも分かった。
早々に教室へ戻り、母とクマ先生との協議の結果
授業以外でのグラウンドへの出入りを禁じられた。
当然やな。
心の中では分かっていたのに、みんなのドッジボールも傍で見れないのかと思うと悲しかった。
次の登校日でも休み時間のチャイムが鳴るやいなやクラスの半分以上がグラウンドへ走っていった。
教室には私だけか。と思っていたが見渡すと女の子数人が私の傍に来て
『ドッジボール飽きた!中で遊ぼ!』
『モノちゃん、お絵かきしよ!』
と寄ってきてくれた。
この時初めて人が人を思いやることの素晴らしさと人のあたたかさに触れた瞬間だった。
一方、私が教室で授業を受けている間の母と妹が気になった。
復学後2週間程は教室前の廊下で用意された椅子に座って待っていてくれたが妹はあの時3歳。
じっとしていられるわけがない。
復学してから、教室に頻繁に校長や教頭が覗きに来てくれた。当時の教頭は女性で熱い先生だった。
ある時、教室を覗きに来た際に廊下で待ちぼうけている母と暇を持て余している妹を見て同じフロアにある空き教室を掃除して、自宅からソファと机とオモチャを持ってきて母と妹に提供してくれた。
ありがたかった。
あの頃の母は不安定だった。
慣れない医療的ケア、夜も頻回に起きては私の様子と輸液ポンプの動作が正常になっているかの確認、加えて家事
ぶっちゃけ、当時は父の協力などほぼなかったと思う。父もまだまだ会社では下っ端で朝早くから夜遅くまで働いていたし、私がこうなってから何かと入用だ。
現に、トランクに酸素ボンベを乗せたり月に1度片道2時間ほどの通院で使う車を普通車の5人乗りから8人乗りのファミリーカーに買い換えたりもした。
とにかく、父は働き詰めだった。
父は必死に働き、母は必死に私の復学に付き合った。
その影響もあり、当時の母は慢性的な寝不足と疲労が蓄積されていた。
用意してもらった空き教室で母は仮眠を取り、妹は1人で遊んで私を待ってくれた。
教頭は母のことも心配してくれたが、同時に同じくらい妹のことにも目を向けてくれた。
うちの妹はいわゆる きょうだい児 だ。
私が心不全で失神したあの日から両家の祖父母が自宅に入れ代わり立ち代わり子守りしに来てくれた。
退院して、家族4人で過ごす日が増えても仕方がないけど母も父も私に付きっきり。
公園デビューどころか同年代の友達もいなかった。
子育て支援センターなるものにも
図書館にも
行ったことがなかった。
行ったことがあるのは私の病院と学校くらい
空き教室で母が仮眠をとっている間も、1人で静かに遊んでいるような子だった。
そんな母と妹を見て、ベビーシッターを紹介しようかとも言ってくれた。
それくらい常に私たちのことを気にかけてくれていた。
復学して約1ヶ月経ったくらいの頃に、学校側から
緊急時対応マニュアルを作成しようという提案をしてくれた。
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