魚にも自分がわかる

『魚にも自分がわかる ―動物認知研究の最先端』(幸田正典・ちくま新書)が面白かった。
 わたしはこの手の話、つまり生物を擬人化する見方が好きだ。
『考えるナメクジ―人間をしのぐ驚異の脳機能』(松尾良太・さくら舎)などといった題名がついている本はすぐに買ってしまう。

 かつては擬人化というのは非科学の際たるものだった。もう二十年くらい前の話だが、或る水族館では、イルカやシャチといった人になついて、なついた人の言うままにショーも行っていた動物にも名前をつけることが禁じられていた。1aなどの数字とアルファベットの組み合わせで分類されていた。わたしが不思議に思ってホームページを見ると、動物を擬人化しないように、とはっきり書いてあった。たぶん、何十年も前に博士課程を出たような幹部職員が上層部にいたのだろう。

 阪神間の都市部の、地理的には中心的な位置でありながら湿地帯であるため打ち捨てられた土地に父親が廃材を運び込んで家を建てた。わたしが成人してからも市は、わたしたちの住んでゐる家のある地域にだけにはガスも水道も設置しなかった。民家はわたしの住んでゐる家だけだったからだ。
 都市の中の小さな小さな荒れ野、水は井戸から、火は最初は薪、わたしが成人する頃にはプロパンガスを使っていた。この話をしても同時代の人は誰も信じない。「おまえの子供の頃には、あの市にそんな原始時代みたいな場所はない。あそこは明治維新以降、阪神間で最初に工業地帯になったところだぞ」と言うのだ。

 そこに生まれたのがわたしだったのだが、ものごころついた頃には家の周囲は一種の自然林になっていた。外から見るとドーム状の雑木林があるだけなのだが、その中にわたしの家があった。
 そんなところだから、変な虫だらけだった。家の近くの水路から水を引いてけっこう広い池をつくっていたので、そこにも魚をはじめとして奇妙な生き物がたくさんいた。池は鯉を飼って食べるために祖父が掘った。
 こういう場所で育ったせいなのか、わたしは昆虫やミミズが人間とはまったく違う生き物だとは思えないまま成人してしまった。

 わたしとしては、ミミズにしろクモにしろ、どうみても心があり、苦しいのをいやがり、痛いと感じてもがいているように見えた。わたしはミミズを見ると引き裂いたり踏み潰そうとしたりする子供や大人を止めた。今ならミミズには梯子型神経節しかないから何も感じてないんだよバカと言われそうだが、当時は、バカとだけ言われた。
 都会で暮らす子供たちは、たまに蛙を見つけると拷問して遊んだし、女の子でさえ、バッタの足をみんなでひとり一本ずつもいで笑っていた。

 わたしはムツゴロウ先生のような動物好きにはならなかったが、虫にすら意識や心のようなものを感じながら大人になっていった。
 大人になる過程で、そういう思い違いを擬人化というのだと習ったが、擬人化は止まらなかった。

 戦争のような愚かしいことをする動物は人間だけだと長く信じられてきたが、わたしのように生き物を擬人化して見ていた子供にとっては、動物同士は、人間も顔負けの際限のない殺し合いを展開していた。

 一方、ひどく奇妙なことも見えた。
 科学的には、生き物は利己的であることになっている。自分の利益のために助け合うだけで、見返りを求めずほんとうの意味で相手のために何かするということは無いとされている。
 擬人化して見ていると、損得勘定なしに相手を助けている場面が見えた。
わたし自身が猫にはずいぶんと助けられた。かつてはそういう場面を見た自分の記憶や自分の体験の現実性に自信が持てなかったが、今になって似たようなことがけっこうインターネット上に動画が上がるので、「ああ、これだよ」と思うことが多い。

 『魚にも自分がわかる』の著者は、擬人化という非科学的な見方は排除した上で、魚の意識を発見したとしている。検証可能な実験を設定して、それによって得た結論だというわけだ。

 それにしても、この本で扱っている自己意識は、それが実在することを証明するのは難しそうだ。
 著者のエピソードとして次のようなことが書いてある。

私が高校一年生のころ、弟が小学校二年生か三年生のある日のことだ。ふたりで家にいたとき、弟が困ったような真剣な顔つきで、「お兄ちゃん、なんで僕いるの?」と聞いてきたことがあった。その質問があまりに衝撃的で、いまでもその場面を憶えている。ひとり心の中で「子供とばかり思っていたが、こんなことを考えている!」と叫んだ。

 わたしも、小学校に入ってすぐの頃、自分の意識があることに気づいて、しばらくそのことをまさに意識してしまって恐ろしくなり、走り出したり泣き出したりしていた時期がある。
 今は、走り出したり泣き出したりということはめったにしないが、心持ちとしては同じで、意識があるということは気味がわるくて仕方ない。いつ気が狂うかと心配でならない。
 「私としてわたしが意識している」こと、じっとそのことを見つめていると精神が根っこから壊れていきそうだ。

 ずいぶん前になるが、古本屋で数多くの死刑囚を見送った教誨師の書いた本を立ち読みしたことがある。書かれたのがさらに古くて、肺結核で人が死ぬ時代だった。

 わたしが立ち読みした部分は、或る死刑囚が結核を悪化させ、死刑ではなく結核で死ぬときの話だ。
 死ぬ直前、枕元に立つ教誨師に、死刑囚は問いかけた。
 
「今、こうしてあなたを見ている私、これは何ですか?」

 教誨師はなんとも返事ができないままでいた。教誨師を見つめたまま、死刑囚は死んだ。

 宗教やスピリチュアルな理論は、この自分で意識する意識に対する不気味さを軽減するために発明されたのかもしれない。
 教誨師になるのなら、やはりキリスト者でないと務まらないだろう。
 仏教者のように「私とは空です」とか「私なんてありません」とか言っていられるのは、まだ、自分が死に直面していない時までだと思う。

 死に直面した人間には、「私に関する物語」が必要だ。

 

 結核で思い出したので、ついでに書くと、わたしが子供の頃に老婆から聞いた話。この老婆とはトモダチというような関係だった。子供の頃のわたしは、女性とは年齢を問わずトモダチとなってしまう傾向があった。

 老婆がまだ少女だった時の話で、やはり、結核で人が死に、しかも、結核になったら助からないという時代の話だった。少女の三つか四つ上の姉が結核になり療養所でもうすぐ死ぬだろうと言われていたときのことだ。
 少女はまだ死の恐怖を知らなかったので、一週間に一度は電車に乗り、バスに乗り、都市から離れた山の麓にある結核療養所まで姉を見舞いに行っていた。
 重症になってからは感染を恐れてもうほとんど誰も見舞いに来なくなっていたので、姉は妹の訪問をとても喜んで、毎回、心待ちにしていた。

 そんなある日、夕暮れになって帰り支度を始めた妹を見て、姉が突然、
「今日は泊っていって」
と言い出した。
 これは小学生の四年生か五年生だった少女にとっては無理な要求だった。まずは親に断りもなく外泊できない。家に固定電話もない時代、電報で「今日は泊る」という連絡をするということまで考えが至らない。
 それよりも、夜の病院が少女には恐ろしかった。療養所に見舞いに通い出してから、可愛い少女を見つけて話しかけた患者は何人もいる。そして、知り合いになって会う度に話をした患者が、もう、何人も亡くなっている。
 夜になれば、絶対にお化けが出る。

 できないよと言って泣いて断ると、姉は、
「お願いだから、今日だけ、今夜だけ、お願い」
と言って、泣き出している妹をつかんで離さない。
 少女はその姉の必死の様子も怖くなって無理やりふりほどいて病室を出た。
 療養所の庭は広くて、病棟から門までだいぶ距離がある。少女は小走りにかけたそうだ。
 門を出てから歩き出したところで、呼び止められた。誰もいないはずの黄昏時だったので、飛び上がるほど驚いて振り返ると、顔見知りになっていた看護婦さんが立っていた。息を切らしていた。走って追いかけて来たらしい。

 子供の頃、その老婆に会うと五回に一回くらいは、この話が出た。五人だったか六人だったか姉がいて末っ子として可愛がられたそうだが、残念なことに二人が成人前に亡くなっている。二人とも結核だったそうだ。

 結核という病は、死の直前まで意識が明晰なのだということをこの老婆から聞いた。



 


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