noteを書き続ける理由

noteを書いてる意味。
もう一度、考へなほそう。

書いて反応があると喜んでる。
スキされました、といふ通知。
コメントされました、コメントにスキされました。
あなたの存在が誰かに認められましたよ、といふ通知。

これがわたしのnote依存を生み出すのかな?
まさに依存。
わたしの孤独感、社会からハズれてる感じは子供の頃から半端ない。
反社会とかいふのではなく、非社会。
社会性が欠けてる。
社会から承認されたい、仲間が欲しい、けれども、得られない。

そんなものは要らないと言ふ人もnoteには少なくないが、noteに来てるといふことは、社会にすり寄り、社会に認めてほしいといふ普通の人であるのは間違ひない。
書くといふことは、認めて欲しいといふ気持ち無しでは不可能だ。

自分の欲しい承認をくれない社会に腹を立てるのが反社会的態度だと思ふ。だから、社会や体制に対して何かと反抗的な人、社会や体制を何かと辛辣に批判する人、群れるのは嫌い、他人はウザイと常に言ふ人ほど、社会からの他者からの承認を一生懸命に求めてゐる、と思ふ。

確かにnoteはリアルな世界では埋められない孤独感を癒してくれそうな感じがした時期があった。
それにハマったのかもしれない。

わたしがどうしても伝へたいことは、今の時代のイデオロギーのことだ。

歴史的・社会的に全体として規定された考へ方の型

つまり、誰もイデオロギーだと思ってないがイデオロギーだ、誰もがイデオロギーだとおもってないからイデオロギーだ、いふことだ。

誰もがそれが当たり前と思ってること感じてゐることは、或る時代や或る特定の社会体制の中のイデオロギーだと思ふ。
そのことをいつも書いてる。

こんなことは絶対伝はらない。
けれどもスキがついたり、ダッシュボードで自分の記事が読まれた数を見ると、伝はる人には伝はるのではないか、と思ってしまふ。

けれども、実は、
ダッシュボードの数字は、記事を読んだ人の数ではなく、題名を見て記事を開いた人の数に過ぎない。内容をじっくり読む人は少ないと思ふ。
noteの書き手は、自分の記事を読んでほしい。他人の記事を読みたいわけではない、といふ人が少なくない、といふ感じがしてきてゐる。

自分とは違ふ考へや感じ方を理解しようと二度読む人はゐなさそうだ。
さっと読める記事しか読まない。
そんな日本語しか習ってきてないからで、noteの記事も千字を超えると読まれない、と書き手も思って、なるべく短く短く、そして、改行を頻繁にして、段落と段落の間にスペースを置いて、
さっと読める
感情に訴へる
共感できる

やうに工夫してゐる。
そんな工夫をしてるとも思ってなくて、してゐる。
さうした書き方しか出来なくなってる。

俵万智さんが始めた現代短歌みたいな文章になってきてゐる。
さっと読んで、ああ、わかるわかる、私もねとコメント欄で自分語りができるものにスキが多い、やうな気がしてきた。

タイトルだけでスキを入れる人も少なくない、と思ふ。

人は自分をわかって欲しい。
でも、自分をふりかへれば分かるように、人は他人をわからうとはしない。
もう分かってると思ってゐて、さうした見方しかしない。
だからこそ、自分といふパーソナリティが揺らぐことなく、今日も自分であることを保てる。
考へこむと自分が危ない。

だから、他人を理解しようとしないことは(さうしてゐると決して自覚できないほどに)人として自然な態度だ。
人は、自分と違ふことを考へてゐる他人の考へを理解しようとしない。
その前提として
①他人が何を言っても自分の考へで解釈する
②自分の解釈に納まらない考へは、取るに足らない、つまらないものだとする。

さうすることで、みんなと同意できる。
みんなとは①と②で自己を保つ人たちだからだ。

そして、その時代のイデオロギーを、それに支配され操られてゐるとも意識することなく、みんなで共有出来る。

何かをみんなと共有出来てゐるといふ感覚は、孤独感を癒してくれるから、人にとっては欠かせない。

(マスコミは、ジャニーズ問題とか県知事問題とかの、みんなが同じ憤りや悲しみを持てる対象を常に供給することでお金を稼ぐ仕事だ。)


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