3月11日
日本中が、
あの日見た忘れがたい光景に、
一瞬で変わってしまった多くの何かに、
多かれ少なかれ想いを馳せる日。
きっと誰かにとってもそうであるように、私にとってもこの日は、今日と同じ明日が誰にも約束されてないってことを、思い知らされた特別な日。
東日本大震災から丸1年が経った
2012年3月11日。
私の父は、その日から、
一歩も自力で歩くことができなくなった。
腕がわずかに動かせる他は、
首から下はすべて、自分で動かせない。
既にその頃上京していた私は、たまたまその日帰省していて、姉夫婦もたまたま実家に泊まりにきていて、その日はとても賑やかな夜だった。
当時あまりお酒の飲めなかった私は、父の晩酌に付き合えず、珍しく和やかな雰囲気で酒がすすむ父と姉夫婦を横目に、早々に布団に入った。
眠りも深くなった深夜1時すぎ。
何度も何度も、姉に呼ばれる声が聞こえた。
「ちょっとお父さんが階段から落ちて、これから救急車で病院行くけん、あんた家に留守番しとってね。」
これは夢なのか現実なのか、まだ区別がつかないような気分で1階におりていくと、廊下に横たわる父に、救急隊の人が声をかけていた。
こんな時でも、よそ様向けの丁寧な返事をしているところを見ると、父の意識はわりとはっきりしているようだった。
母と姉が病院に付き添い、姉の旦那と2人で私は留守番。
この時自分がどんな心境だったのかは、あまり記憶にない。
ただ覚えているのは、一緒に待ってることしかできない姉の旦那に、「姉ちゃんのどこが好きで結婚したの?」と聞いたら、「顔かな」と言われたことくらい。
父は、一命をとりとめたし、あの時救急隊の人の質問にちゃんと答えていた。
なのに、病院に運ばれてからは、近寄れないほど、いろんな機械や管が父にいっぱいつけられていた。
そして、
父は脊髄を損傷し、ほぼ全身不随の状態になったのだと、聞かされた。
それはあまりに突然で、ショックとか悲しみというよりも、正直よく理解できず、末っ子で何もできない私は、忙しなく対応する母や兄姉をぼーっと見守ることしかできなかった。
仕事のため東京に戻らねばならなかった私は、空港まで見送りをしてもらった。
保安検査場を通過し、ひとりになった途端、何が堰を切ったように溢れ出し、涙が止まらなくなった。
父はそれからずっと病院で寝たきり。
度々病気もするようになり、どんどん痩せ細っていった。
そして、あの日救急車で運ばれてから一度も、家に帰ることなく、2年を目前に、父は病院で息をひきとった。
こういうドキュメンタリー的な番組って見たことあるし、他人のエピソードとしては十分あり得るってわかってたけど、まさか自分の人生にこんなドラマチックな出来事が起こるなんて、正直微塵も思っていなかった。
明日は今日の延長ではなくて、大切な人が今日と同じように明日も隣で笑っているとは限らない。
だから、伝えたいことは、伝えられることは、
明日ではなくいま伝えよう。
あの日からずっと、大切にしたいと思ってること。
毎年3月11日に、改めてそれを胸に刻んでいる。
たった一瞬で、人生は大きく変わってしまうから。
変わってしまってからでは、
失ってしまってからでは、
できないこと、伝えられないことを
みんなが大切な誰かのために
そして誰より自分のために
今日も大切にできる1日でありますように。
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