自主的反省の限界感覚
久々に自ら考えてみようと思い立った。最近はこのモード、いわば近代人的なモードが鈍っているように思う。初期ロマン派には概して「無限の反省」というレッテルが貼られるが、これは概して苦しいのだ。結局これはあのカントの言うところの「理性」にタガをはめる「法」が切断された状態なのだ。「文章は発話の写し」とは考えられないし、「思考の写し」とも考えられない。文章ほど明瞭な内界が予めあるとは思えない。恐らく書くことにおいて自主規制をしているようなところが人間にはある。だから、この文章の機能を逆用して自己律法としたり、或いは社会的な実定法として作用させたりするのだ。だから、いわば思考は内界にはない。或いは内界と外界という区別がここでは消失する。文章のほうに思考があるともいえる。しかし同時に確かに内外の区別における内界で考えていることも事実であり、これに不得意な人は話せばだいたいわかるところがあり、それは彼らの現実性がきわめて狭隘であるということにみえる。
超越的な神をなにか「上のほう」に置く必要は、ここでは存在しない。或いは思想的に置くならば「構造的空白」のイメージでよいと思う。だから、なにか反省においても実はそれを抑圧している表象イメージがある場合が非常に多い。それで神経を病むという場合がみられるが、実際には、というところで、イメージを動かしたり、或いは「超越論的なんちゃってビリティ」的に「まあ結局は薬を飲めばなんてことないんですけどね」というような感性を保持しておかなければ、進歩的な仕事はできない。しかし当然、進歩的な仕事をしなければならないという要請はない。しかし、ここで改めて私が「正しさ」というプリミティブな超越的観念に立ち返る必要があるだろうか。そもそも、「客観的視点」「第三者視点」とはいかなる視点なのだろう?それは誰のまなざしなのだろうか。或いは何だろう。
ここにおいて考えられるのは、可能性の拡張においてもはや、例えば「無意識」を受け容れるためには一旦「自己意識」を捨てる覚悟で河に飛び込まなければならないように、この文体のような媒体では限界があるのかもしれない。哲学者は結局、いかに詩的センスがあれども良心的に悟性的に語ろうとしすぎるところがある。さりとて音楽や絵画の喚起力はまた別のものでもあるので、なにか新しい近代に見合う文体媒体の開発も必要かもしれない。
2024年2月22日
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