プロセスとしての生存~二本足の哲学と行為存在論~

 必要なる一事。――人のもたなくてはならぬものが一つある、生まれつき軽やかな心か、芸術や知識によって軽やかにされた心かである。

F.W.ニーチェ『人間的、あまりに人間的』

 これまで数多の愛情飢餓が青年を美的な死に誘ってきた。重たい懊悩の文学は終わることがない。かえってこんにち筆を執りて書くべきは、聡明な美意識を保ちながらも生き抜くための産物である。かつての観念的散文の時代とは違い、新しい媒体が普及したこんにち、感覚刺激に訴える快的な美が万人に行き渡ることができるようになった。しかし私には、漫画を描く才能も音を打ち込む才能も、今のところない。ところで、いかにそうしたものが普及しようとも、伝達したい内実を伝達するものとしての文章は、その精度からいって、直接自他の神経系が接続されるようにならないかぎり不滅であると信じる。そうしたところから、私は当面、快的な美の制作ではなく、具体的制作行為以前の自己制作に賭けて執筆を継続しようと決意しているのである。そうした反復的行為が何らか寄与するところとなれば幸いである。

 たいてい人間の哲学的根本洞察は青年期の発達の早い段階で済まされており、その後は迷いつつ幅を拡げながらも同一の洞察を保持するものである。私の場合、高校を中退し引きこもりのニートになった2013年秋の追い詰められた思考に伴う、定義の定義、根拠の根拠問題からのミュンヒハウゼンのトリレンマ、及び無底、引き続いて起きた、「超次元的な何かがあるかもしれない」という恐れからの「世界は水溜まりのようなもの」という無分別、無自性、空の理解、これが大きかった。これにより、現象に実体はなく、活動が関係しているのみという基本路線が確立した。だからその当時に敢えて恥じらいを捨てて格好をつけて使っていた決め台詞は、「ないあるよ」であった。その後ナーガールジュナ(龍樹)や後期ウィトゲンシュタインに興味を示していて、図書館でその関連本を漁っていたので、記憶は確かで、そこから現在に至るまでこの根本洞察はなにも動いていない。なお、ナーガールジュナの主著は『中論』(『根本中頌』)であるが、それはだいたい以下のようなものである。

既に去った者は去られない。未だ去っていない者も去られない。
既に去った者と未だ去ったものとを離れて現に去るものも去られない。

ナーガールジュナ(龍樹)『中論』より


 しかし、私のようなものはありがちすぎるほどありがちな増上慢(思い込みの悟り気分)で、一時期は本気で「悟った」と思い込んでいたが、今から考えるとそれは性急で、確かに有耶無耶に有耶無耶な逍遥遊生活を送っていたことは悟りであったと今でも認めるが、少なくとも元ネタである初期仏教から現在に至るまでの仏教の教えはそのようなものではなかったはずである。そこにあったのはただ古代ローマ式の「メメント・モリ」であり、「我々は明日死ぬ」であった。すなわち、生き抜くための設定としてはあまりにも変数が不足していたのである。結果的に自我の将来への懊悩と環境からの抑圧によってパニック障害を発症するに至った。だから、今改めて、あの不動の根本洞察を核として新しい哲学を建設しなければならない。不適応な増上慢は本来の目的とは真逆に神経症を引き起こすことさえあるということを警告しておかなければならない。


近代的自我と無常無我

 ここで我々が行うべきは真理の探究ではなく、生き抜くための哲学の建設である。だから、そうした位相においてこそ記述を行うべきであって、なにか不動の対象世界存在を前提とした基礎づけを行おうとすれば、我々は再びあの近世近代認識論の陥穽に嵌り込み、場合によっては命を失ってしまうことになる。
 さて、一般にデカルトが発見しカントの統覚に継承された「近代的自我」は、元来、以前の記事

でも触れたように、認識論的懐疑論に対して生きていくために絶対確実なものの探究を行ったデカルトの思索から生まれたものだった。曰く、「疑っているかぎりにおいて、疑っていることは疑い得ない。だから疑っている当の主体が存在する」。「我思う、故に我在り」と定式化されたこのテーゼは、近代を貫く一大トピックとして残り続けることになるだろう。そもそも、懐疑論もデカルトも、或いは他の多くの哲学や思想も、基本的に切実な願望は同じである。すなわち、それらの考え方を通じた世界の複雑性と不確実性の縮減、ひいては確実な人生の指針を定めることである。近世初頭に再燃した古代懐疑主義は、まさに心の平安のために、不確実な世界を生き抜くためにこそわかるもわからないも疑った宙吊りで現実を生きていく戦略であった。ちなみに、むろんこのピュロン主義と呼ばれるところの懐疑主義も、生き抜くための哲学としては圧倒的に変数が不足していたように思う。
 なお、初期ギリシアから現代思想、或いは初期仏教から大乗仏教、東アジアの諸思想について、私の学んだところ、やはりどうしても時代が思想を選ぶのであり、また人が思想を選ぶ。例えば諸国分立なき自由思想家や諸子百家はあり得ず、ポリスなきソクラテスもあり得ず、革命なきドイツロマン主義もあり得なかったであろう。人類史的にみて近年における大きな歴史の不連続点は、やはり産業革命と市民革命であるが、それによる国民国家形成よりこのかた、大きな戦争も経験したが、やはり明らかに、一人の個人が成長するように、その社会の循環も上手になってきていると思う。そこには闇雲に「進歩」という言葉を当てずとも、確かにうまくなってきたという実感は持っていいと思う。
 さて、その近代的自我であるが、その定式が明治維新を経て新しい社会形態とともに日本に移入された。日本の思想的近代をリードしたのは哲学者ではなく文学者たちであった。彼らはあまりにも正面からあらゆる近代的なるものと対峙し、呑み込んだため、多くの煩悶を抱えることになったし、結果からみてもまさに捨て身だったのである。そもそも日本の伝統思想の基本はやはり仏道であり、庶民には他力の思想が人気を博していたが、上層の者たちに受容されたのは禅によってこんにち自力と呼ばれる生き方を行う生活と身体が密着した仏道であった。そこでは、曹洞宗であれば「修証一等」と呼ばれるように修行することが即悟りなのであって、修行の結果に悟りに致るという考え方を一切取らない。日常の些事が即菩提なのである。この、例えば「煩悩即菩提」などの「○○即菩提」の精神というのは、天台本覚思想以来の日本の伝統思想であり、ありのままの自然(ジネン、或いは老荘思想に換言すると「無為自然」)の甘受である。そうしたところから、「還俗」ということが、評論的な言葉づかいで格好よく言えば「還相」が現れてくる。なお、多くの宗教では「委ねる」という感度がとても大切にされるが、私はキリスト教や浄土教などの「他力」だけが委ねるということではなく、一般に「自力」と言われる教えも結局は「委ねる」ということが基本にあるとみている。只管打坐でひたすらに坐ることができるのも、いわば前提に「委ね」が隠されているからであろう。
 独り歩むことを教条とする初期仏教から、それを少ない歪曲で継承した禅宗系を通覧すると、そこには無常無我の教えが通底していることがわかる。一切諸事物に実体はなく、総ては因縁起滅である。しかしここで言語的自我に対する無我の認識の強調をしただけでは悟りではなくたんなる増上慢である。だから初期仏教から禅宗は、生涯をかけて坐るのである。坐る、という身体化された実践が、よく言われるように一子相伝で一緒に生活しないと伝わらないということになるのである。確かに仏教には、八正道の「正見(正しい認識)」から始まり「正定」で終わる順番のように、現代思想的に見れば倒錯した主知主義もあるのだが、肝心なのは、正見で終えてしまえばただのありふれた似非仏教になってしまうということである。澁澤龍彦は、苦行で得られる悟りも薬物で得られるそれも同じだと言っていたようであるが、そういうことではないはずである。だから、少なからぬ現代仏教者もこの点を誤っているが、無我に関して「理解/誤解」のコードで捉えているうちは、いわば確かに間違いではないのだが、たんに表層の見解止まりだということになる。その意味で、ピュロン主義的懐疑論というのも一理あるのだが、「主義」や「論」として受け取っているうちはなにも身体化されておらず、経験の変数は全く拡張していないのであって、たんなる思弁に留まっているのである。肝心なのは生きる知恵ではなかったか。

自意識、あるいは自我意識過剰

 近代的自我にせよ、エスを前提としたコンフリクトによって生起する自我意識であれ、その過剰は典型的には「予期不安」となって現れる。かつて何かのものの本で、ブッダの生老病死からの出家は、早くに母親を亡くし物憂い性格だったブッダの神経症の治癒行為だという議論を見かけたことがあるが、これにはおよそ賛同するものである。私は、多分、このことが了解できる方であるが、経験に圧倒された人は往々にして将来に対する厭世の観を呈する。
 教科書にもよく掲載されている芥川龍之介の『羅生門』には、

そこで、下人は、何をおいても差当り明日あすの暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。

芥川龍之介『羅生門』

という一節があるが、この「どうにもならない事を、どうにかしようとして」という感度がまさに端的に自我の煩悶の基本形である。仏教の根本洞察である「苦」とは、思い通りにならないということを強く含意している。しかし、強いて「近代的」という形容を付さなくてもよい。というのは、イエスの教えの肝要なものに「明日のことを思い煩うな」というものがあり、ブッダの教えもその点では同様であるように、古代からある諸宗教にその教えが要点としてあるということは、すなわち大脳の肥大化した人類の共通の悩み事はこのことだと言っても過言ではないということなのである。自由、或いはここでは際限なき可処分性は、運命ということを忘却させることになる。近代に限った話ではない、というのは、フロイトの「エディプス・コンプレックス」など何度も何度も反復される、古代ギリシアのソフォクレスの悲劇『オイディプス王』を読めばわかる。あのスフィンクスの謎かけ、朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足、これは何か、というのは、その後の話の展開からわかるように、二本足の自由の季節があるゆえの三本足の、或いは盲目に杖をついて去ってゆく悲劇性があるのであるが、そもそも人間はそんなに「二本足」ではないし、ニーチェが「精神の三様の変化」という「駱駝→獅子→幼子」の「獅子」で言うようには、人間は自律的な主体ではないはずである。アリストテレスの悲劇論である『詩学』以来、悲劇論は西洋哲学のお家芸と言えるほどになっているのだが、伝統的に言われていることを総合すると、要するに悲劇鑑賞の涙によるカタルシス=浄化作用は、張りつめた緊張が最後に一挙に放たれることによるとされている。私は以下の悲劇論に共感するものであるから、基本的に性欲動的なオーガズムも同様の事象として捉えている。要するに名称を付与するならば「お漏らし悲劇論」である。

悲劇
 悲劇とはみずから羞ずる所業を敢てしなければならぬことである。この故に万人に共通する悲劇は排泄作用を行うことである。

芥川龍之介『侏儒の言葉』

 『オイディプス王』ではオイディプスがその妻=母であるイオカステもろとも発狂とも呼べる事態に陥り、イオカステは自殺し、オイディプスは両目を突き刺して放浪していくのであるが、フロイトはここから「三項関係」を析出して、晩年に至るまで執拗に<父>殺しの考察を展開するのであるが、これがのちの現代思想史上の議論に繋がっていくのである。なお、『オイディプス王』は父親殺しを描いたが、家族関係と父親殺しに焦点を当てた作品と言えばやはり近代ではドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であろう。『カラマーゾフの兄弟』では、最重要人物であり「大審問官」で無神論を展開するイワン・カラマーゾフが、結果的に発狂してしまう。近代の人権思想では万人に個人の尊厳が天賦ということになっているが、先行する言説によっても、或いは考えてみてもわかるが、尊厳観念は人間本性としての「支配/被支配」由来の観念であり、本性的には天賦のものではありえない。吉本隆明が『共同幻想論』で「禁制論」としてタブーを論じた際に、

 じぶんにとってじぶんが禁制の対象である状態は、強迫神経症とよばれているもののなかにもっとも鮮やかにあらわれる。

吉本隆明『共同幻想論』

と論じており、エディプス=オイディプス「王」に典型例が示されよう。余談だが思春期以来神経症も患っている私を事例に取ると、私は「母子寮」と呼ばれるシェルター施設で母に自慰行為を教わったという経緯がある。
 被支配者の支配者に対する「拝跪」が、支配者の尊厳と被支配者の隷属の儀礼である。或いはドストエフスキーにはさらに『地下室の手記』など典型的に肥大化した自意識を扱った作品が多いのだが、閉鎖的な環境で自意識が自己言及的に作動すると、ある意味で自己拝跪の状態であるとともに、反省作用を軸に据えると無限の自己否定の状態でもあり、それは典型的にノイローゼをきたすことは容易に想像がつく。そのような自意識という名の尊厳が失墜することが、あらゆる悲劇的なるものに共通しているように思う。だから、確かに排泄作用は悲劇の典型例であるが、ここでわかるのは、悲劇や喜劇という形容はあくまでも観望者の視点でしかないということである。実際には、排泄であれ、または発狂であれ、自己受容がありさえすれば本人にとってなんらの悲劇性はない。だから自己受容ができないほどに大きな自己愛が問題なのである。だから、ニーチェの言うような「大いなる自己愛」では、断じて本人の言うように軽やかにはなれないはずなのだ。だからフロイトや吉本の議論するように、何らか「対象」への愛情が要請されるというのは自然な流れである。または遡ってショーペンハウアーであれば、愛情の意志を鎮めることになるだろうし、彼の依拠した仏教であれば、「また、子を欲するなかれ、況や朋友をや」であり、肉食妻帯以前に原則友達さえ持ってはいけないという徹底的禁欲性なのである。結局、戦略が異なるだけで、やろうとしていることは、欲求=意志=生存本能=リビドーの心的エネルギーを自己言及的に作動させないということである。当然それは、隣人愛や神への愛といったアガペーでも同じことであり、認識論的フィリア=フィロソフィア(哲学、「知への友愛」)でも同じことである。しかしこの「愛する」戦略を取る場合、認識論が苦しい戦略であるという事態は、原理的に対象が構造的空白であることに由来すると思われる。対象となる「知」や「善」の内実が見つかってしまえば、もはやそれは原義的な意味での認識論ではない。だから、愛する対象には内実の充実した「アニマ(霊魂)」が要請されるのであり、その場合「存在」に様々な情感を込める方法は、いわば神(The God)にあのような「熱情の神」「妬む神」といった性格を付与するのに近い。近代以降は「ロマンティック・ラブ=イデオロギー」にみられるような対幻想に取って代わったが、基底的な霊魂観は変わっていないように思う。しかし「言葉」で哲学をやってはいけないのであって、この場合の言葉とは「リビドー」や「意志」といったものである。なにか「リビドー」と言えば当たっている気になるが、事実関係としては恐らく中枢神経系における神経伝達物質の分泌等の活動状態の射影として考えた方がよいと思う。私は経験上、ホルモンバランスと自意識の強度が関係していると考えている。恐らく事の原型から考えると、自意識とは社会的に張り出された演出的自己像でもあるから、異性へのアピールがあの若年的な自意識過剰をもたらすのだと思う。活用しうることを述べておくと、所謂愛情ホルモンであるオキシトシンと男性ホルモンのテストステロンは拮抗的であるから、どちらかの濃度が上昇するとどちらかが低下するようになっている。フロイトの議論するところによると、リビドーのエネルギーや本能的攻撃性が反省的に自己に向かうと「内面の攻撃性」になり、それが神経症的な症状を引き起こすこともある、ということであるが、この洞察は先に述べたような事態からも意義深いものである。そこでフロイトが提唱し娘のアンナ・フロイトが定式化した「防衛機制」には、「昇華」というものが盛り込まれている。昇華とは、リビドーを文化的に承認される活動に向けかえることでそのエネルギーを解消することである。芸術家や哲学者が孤独な時期にこそ多産的になったということはよくある事例である。或いは先のホルモンバランスとリビドーの議論から言うと、こんにち「アタッチメント」すなわち「愛着」と呼ばれる問題からくるところの慢性的愛情飢餓があるからこそ、文豪たちが文豪たりえたとは言えないだろうか。したがってその事例から看取されるところとしては、いくら愛人の数を増やしてもそこで言うところの「愛情」の満足にはならないということである。そのような日本の「類天才的」な文豪たちに対して、精神病跡学者のクレッチマーの主著である『天才の心理学』によると、早くに情熱的な恋愛ものを書いたゲーテとルソーはともに、最終的に知的教養の低い女性との結婚という落ち着きどころを見つけて安定期に入ったようである。しかし出生直後に母を喪い父兄も相次いで失踪したルソーのその後の遍歴人生をどう見るのかということは悩ましいものであり、彼の慢性的な疎外感による迫害妄想のなかの生は、ある種危ういところで保っていたような感があるし、『孤独な散歩者の夢想』などを読めばわかるが、彼には知性があったので本人もどこか妄想を妄想だと思っている節があるのだが、かえって苦しかったのではないかと推察する。それでもなお病死するまで生き抜いた点で、彼については保留にしなければならないと思う。

突破口としての「行為存在論」

 これまでの語り口を一挙に転回させる。従来の戦略は、自我であれ無我であれ、或いは意志であれ、まさに内的主体を中心とした方法論で袋小路に陥っていた。そこで、私はむしろ、存在が行為するのではなく、行為することにおいて存在するという「行為存在論」を活用してみてはどうかと思う。「行為存在論」とは日本におけるオートポイエーシスの第一人者河本英夫による造語であるが、「行為を継起的に反復することがすなわち同時的に存在することである」というものである。

 『少女終末旅行』を代表作に持つ漫画家のつくみず氏が、『なぜ私は一続きの私であるのか ベルクソン・ドゥルーズ・精神病理』を読んでいたことがツイートから観測されるが、氏は『少女終末旅行』のあとがきでも「生命」や死後、或いは「終わり」への関心を記述しているので、そうしたところからもオートポイエーシスに接点があると考えられる。河本の『オートポイエーシスー第三世代システムー』の終章、「システムの日常 カフカ『プロセス(審判)』をめぐって」は、

ヨーゼフ・Kは自分の死に対してさえ、観察者でありつづけてしまう。作動の場をもたない自己意識は、みずからの消滅を義務として受け入れたのである。こうして三一歳の誕生日の前日、みずからの場をどこにももたない観察者は、みずからの行為によって消滅した。あとにはシステムの作動だけが残されている。

河本英夫『オートポイエーシスー第三世代システムー』

と締めくくられている。これは哲学史的には、例えばショーペンハウアーが、個体化の原理によって個体化した「意志」が死後も宇宙意志として残存するとしたような、そうした設定との連続性が見受けられる。このことについては『少女終末旅行』にも登場する『意志と表象としての世界』を読んでもよいが、それよりも岩波文庫から出ている『自殺について』を読むと簡潔にまとめられている。



 これがオートポイエーシスのであるが、この影を現実の只中のイメージで掴むと「行為存在論」が見えてくる。あまりにも卑近な事例を挙げるとすると、日常の中でいつも反復する行為が、例えば料理や散歩や読書が、それを反復していることにおいて私をしているということである。井筒俊彦が紹介したイスラーム哲学者イブン・アラビーの言葉に、「存在が花する」というものがある。すなわち、普通は「花が存在する」のであるが、存在論的に「存在が花する」と主述関係を逆転させるのである。これは、「存在」を茫漠とした原初の混沌のような活動としてイメージしてもらうとわかりやすい。ここで、存在ではなく行為や機能を措定すると、「私が行為する」のではなく「行為が私している」「機能が私している」という事態になる。以前の記事、「生活のブリコラージュとしての自己制作」で開示したところの方策がこれである。

 ここで述べたように、現代的に、私としては、変数=構成素としては摂取する物質も考量しなければならないと考えるし、諸々の疾患からみてとれるように、いくら知識やスキルがあったところで化学的にほどよく均衡状態になければ健康で幸福な状態にはおかれないものである。
 ところで、人間社会で生まれ育たないかぎり「名付けられた自己像」としての「自己」という社会的仮象は成立しなくてもよいはずであるし、成立しないだろう。すなわち、自己同一性は、例えば安定した定住文明などによる社会的仮象であったということであり、こんにちの「界隈化」していく社会の各種界隈でみられる「アカウント名」や「ハンドルネーム」などの「ネーム」は、そのままそれに紐付けられて一つの自己像を提供することになる。しかしこの名づけの精神に欠落しているのは、機能的に反復的再生産を繰り返しつつ老化していく身体性である。ちなみに、脳は身体であって心的システムではないから、「心」という現象をなにか額や眼球の奥などに表象するイメージは適当ではない。しかし、表象イメージないしは社会的仮象に引っ張られた行為は通常行われていることであるのだが、例えばそうした表現行為としてのオーバードーズは身体に不可逆的な変形をもたらしてしまうのである。そのような不連続点は人生において多々あるのだが、こうした経験の差異化に関しては、本性的に結果を測定するという判断が妥当しないので、常に同時に両義性を有するしだいとなるのだが、了解されるように既成の社会的判断がそれを裁くことになる。生存と福祉は重要な事柄だが、難しいのはそれを相対化することや脱構築するような安直な議論ではなく、生存と福祉のためにこそ逆説的に一時的にそれを毀損するような体験を通過しなければならないことである。例えば、生育環境において抑圧の強すぎた青年は、どこかでそれを消去することでのちの社会適応を良好にする場合がそれである。
 さて、ここで把握しておかなければならないのは、世界というプロセス、或いは盲目的な世界過程にあってはどこかに「致る」という発想を捨てたほうがよいのではないかということである。「神に致る」「知に致る」というのは古来ありふれた言説であるが、もっと具体的な事例として言うと、人生において学習過程は大学受験で終わりではないのである。だから、「致る」のではなく幅を持った現在というプロセスのさなかにおいてどうするのかということであって、何か自分に相応しいところがあるという前提を前にした、いわば「最適化のための最適化」は、この議論からするにあまり望ましいものではない。そうした、目的に対する過去としての現在という設定ではなく、日常において諸行為の変数を起動し続け、目安としての目標はあっても何が引き出せるかは不知である、という事態が、むしろ通常のありかたではないだろうか。ここにおいてはもはや、運命論的な、必然か偶然か、ということはさほど問題にならない。当の事態は常に既に存在しているのである。


 この不確実な世界で、答えを出しながら累積的に生きていく人々がいる。しかし、そうではなく、悩みつつ迷いつつ生きていくという人もいるものである。「人間は努力するかぎり迷うものだ」とはゲーテの言葉であるが、ニーチェも、「一段深く考える人は、自分がどんな行動をしどんな判断をしようと、いつも間違っているということを知っている」というアフォリズムを残している。答えを出す知性だけではなく、正解も不正解もないところではたらく知性において、ともかくやってみるということが何かを生み出すのかもしれない。

2024年1月13日


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