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初詣に見る日本的寛容性

年が明け、平成31年を迎えました。移り行く時代の中で正月らしさは少しずつ失われてきているように感じられますが、それでもなお多くの人たちが初詣に出かけ、1年の幸運を祈願し、おみくじで運勢を占います。神社には多くの出店が立ち並び、初詣の景色に彩りを添えます。日本人は皆幼いころに親に連れられてお参りに来たからでしょうか、神社の出店を見ると年をとっても懐かしい気持ちになります。思わず買い食いをしてしまう人も多いことでしょう。

幕末に日本に訪れたドイツ人考古学者シュリーマンは、寺社に詣でる日本人の様子を見て、日本人は信心深いのかそうでないのか分からないと書き残しています。禁欲を旨とするキリスト教では、心を清めて教会に礼拝する際、まるでお祭り騒ぎかのように出店ではしゃぎまわることは考えられないことだったのでしょう。皮肉なことに、現代では、「信心深い」キリスト教徒はかつてのようには教会に足を運ばなくなり、一方の「信心深いのかそうででないのか分からない」日本人は、欠かさず初詣に出かけています。もし神社に出店がまったくなかったとしたら、もしかしたら、日本人はこれほどまで初詣に出かけていなかったかもしれません。

神社でお祈りをする際、自分自身の幸運を祈りつつ賽銭を投げ入れる行為も、見方によっては「世俗的」です。まるで神様からお金で幸運を買おうとしているようなものですから。おみくじも、神様に占ってもらい、そのお礼として自発的に寄付をするものではありません。初めから、値段を付けて売られています。日本人の信仰には、遊びやお金に対する寛容性がそのベースにあります。その寛容性が、日本人の信仰を長く生かしているとも言えます。かといって、もし信仰が過度に「世俗的」であったなら、それはそれで長く続かなかったかもしれません。日本で信仰が長く続いているのは、それが適度に「世俗的」であるからのように思えるのです。

適度に「世俗的」であることで永続性を有しているのは、信仰に限ったことではありません。伝統文化や「非世俗的」要素を持つ多くの領域において、このパターンを見出すことができます。「清貧」は理念として美しいものの、どうしても永続性に難点があります。日本人には、「清貧」であるべき領域においても適度に「世俗的」であることを受け容れる寛容性を備えているのです。

いよいよ平成が終わり、新たな時代が始まろうとしています。万博の開催が決まり、来年にはオリンピックが開かれます。これらのビッグイベントがSDGsを掲げていることからも分かるとおり、環境問題は新時代のテーマになりつつあります。単なる自己犠牲ではない、サステナブルな社会を作っていくうえで、日本的な寛容性には大きなヒントがあるような気がしてなりません。

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