見出し画像

西堂 行人『[証言]日本のアングラ』(作品社、2015年)を読みました。

演劇研究者によるアングラ演劇当事者へのインタビューと論考集。明治時代に歌舞伎を否定し始まった近代演劇の流れの中でアングラ演劇を位置づけようとしている力作で読み応えがありました。佐藤信のアングラ演劇をポストコロニアルの動きと捉える視点には目から鱗でした。唐十郎、別役実、瓜生良介、佐藤信、太田省吾、蜷川幸雄、九條今日子(寺山修司の妻)、鈴木忠志へのインタビューと扇田昭彦との対談はなかなか密度濃く貴重ですね。

本書より…

沖縄が日本に復帰した時にも公式文書に「昭和」の表記が強制された。元号なんて世界的には通用しないのに、役所的にはこれを強制されている。異様な世界に生きている感覚がまずあります。
その独特の世界に生きていることを知らないで、世界に向かえない。
-----
それに対して、アングラの一つの重要なポイントは、ポストコロニアルの側面があると考えています。つまり「自国語演劇」(だから日本の劇作家でも、近代戯曲をやらない)。フィリピンだとタガログ語で上演するとか、インドだとヒンズー語でやるとか。これは明らかに植民地主義の終焉との関わりがあり、タイムラグが一五、六ねんあって、演劇にまで届いて来るんだよね。
-----
ただ生身の俳優が、生身の観客の前で出会う行為が演劇なので、そこで生きている人間は確実に死を控えている。これは「人間」を見る時の基本であって、その生の否定の彼方にエロスがある。この死とエロスを認めないとなると、人間を描く時、非常に薄っぺらいものになってしまう。
-----
演技は一般的に他人に成り代わる「変身」と考えられがちだが、自己の内部にある闇に向かって錨を下ろし、そこから未だ出会えぬもう一つの自己を探ることが「演技」なのだと規定した。したがって舞台には「他者なる自己」が顕われ出でるのである。
-----
つまり、いわば演劇革命は世界の多くの国でほとんど同時多発的に起きていて、日本の「アングラ演劇」もその大きな流れの一部だったのだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?