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遊びについて




何年かに一度、遊びについて改めて考えたくなるときがあります。

その何年かに一度がやってきたので、改めて書きます。


保育士という仕事柄、遊びは大切なものです。

保育所保育指針という保育士にとって指針があるのですが、そちらにも遊びの大切さは書かれています。

子どもはただ遊べばいいのです。

そして、その子どもの遊びを保育士は見ます。子どもの遊びを通して、その子の今を知り、その子の過去を知り、その子の未来をイメージします。

子どもは遊びを通して成長していきます。遊ばないで大きくなる子どもはいません。

子どもにとって遊びとは呼吸のようなもの、そして空気です。風です、陽射しです。そこに当たり前にあって、当たり前過ぎて意識しないものです。

子どもが自然に遊んでいるときの雰囲気は、とても穏やかで柔らかでエキサイティングでダイナミックで喜びに満ちています。

保育士はその当たり前の遊びを見ています。


何年かに一度書くので、その間に僕が経験したことや考えたことが影響してきます。全く同じように書くことはありません。

さて、今回はどうなるか…。


では、始めます。


遊びとは、生活の中にあります。生活の中の一部です。

生活とは、暮らしている時間のことだと思います。

朝起きて、トイレに行って、食べて、家を出て、働いたり勉強したり、お昼を食べて、また働いて、そして帰ってきて、食べて寝て、お風呂も、着替えも、その全てが生活。

生活の中に、遊びがあります。

遊ぶ時間がある、その余裕が、生活の遊びになる。


大人がイメージしている遊びと、子どもがしている遊びは、少しニュアンスが違うかもしれません。僕は今、子どもの遊びについて書いています。

大人がイメージする遊びは、娯楽の意味合いが大きいかと思います。旅行や、ボーリングなどの遊行、趣味や息抜き。それらももちろん遊びなのですが、子どもにとっての遊びは、意味合いが変わってきます。


僕が考えている子どもの遊びとは、自然に始まり、内的な喜びがあり、対象への興味が深く、その子ども自身がやりたくてやる行為です。


ハイハイをしている赤ちゃんがガラガラを持って振っている。

それは、ガラガラを振りなさいと指示されたから遊んでいるのではなくて、赤ちゃん自身が遊びたいから遊んでいる。


赤ちゃんにとって、ガラガラは興味の対象になります。カラフルで、持ちやすそうで、掴んで振ると音が出る。

自分の自発的な行為に反応があることが、さらに興味を深くします。

強く振ったらどうなるか、振りながら手を開いたらどうなるか、興味は続き、赤ちゃんはガラガラで遊び続けます。

しかしある時飽きます。飽きるというよりは、その反応に慣れます。この反応は知っている、ガラガラがどんな音がするのか、どんな反応をするおもちゃなのか、それらをわかり、慣れると、次の遊びへと向かっていきます。

そして、赤ちゃんは寝ているときと食べているとき以外はずっと遊んでいると言ってもいいかもしれません。


もちろん、赤ちゃんは計画立ててそれらの行為を繰り返しているわけではありません。

強く振ったら音が大きくなる、などは、偶発的な発見です。たまたまそうしたらそうなった、だから、おもしろい。

イメージ通りにならないから興味を引く。または、イメージ通りになるからおもしろい、そんなところの狭間を、子どもの遊びは行き来します。

予測からの的中と、予測からの想定外、遊びには様々な側面があり、そしてその側面が、遊びの魅力をどこまでも深くしていきます。


ガラガラが無くても赤ちゃんは遊びます。視線で捉え、耳をそば立て、手足をばたつかせ遊びます。

子どもが遊びます。

大人から見たら意味のわからない節回しの歌を歌い続けることもありますし、その場でくるくると回っている姿もある。

機嫌がよく体調も優れている子どもは、何かしら遊んでいると言ってもいいかもしれません。

子どもにとって暇な時間はないのです。

子どもは遊んでいます。

子どもが暇だと言うとき、それはきっと大人のマネをして遊んでいるのだと思います。

大人が退屈だ、暇だ、と、言います、その姿を真似ることで遊んでいるのです。

子どもは遊びます。子どもが遊んでいないと言われるとき、それは受け手側の大人がそう捉えていることが多いような気がします。

どんな行為もその子どもにとっては遊びになっている。そんな目で見ると、子どもを見る目が変わってくるかなと思います。


子どもはどんなときでも、やりたいことを、やりたいようにやりたいので、その姿はわがままに見られてしまうことがあります。

時間を目安に動いている大人から見たら、子どもの遊びは非効率で、意味のあることとは思いにくいのかもしれません。

常識を目安に動いている大人から見たら、子どもの遊びは非常識であると思われてしまうかもしれません。


保育園に送り届けるまで、あと10分しか残り時間がないのに、子どもは遊びたがることがあります。

あの電車で遊びたい、あのテレビを見たい、大人はそれどころではありません、早く保育園に送り届けないと仕事に遅刻してしまいます。

そこで子どもと大人はぶつかります。

子どもはやりたいことをやろうとするし、大人は子どもに言うことを聞かせようとします。折り合いがつかないと悲劇です。

子どもが泣いてそれをなだめながら大人が連れて行く、これらの一連の出来事は子どものわがままと見られてしまいがちです。

(ここには大人と子どもとの時間という概念への認識の違いがあるのですが、それはまた今度別の機会に書こうと思います。)


土や小石があったら、まず子どもは触ります。それは汚いから触ってはいけないと言われるとますます触りたくなるかもしれません。

自分の興味を引いた対象からすんなりと手を引く子どもに出会ったことがありません。

まず、触ります。

だいたいの大人は土や小石を触っても何も得るものがないと思っているので、それらの行為を子供っぽいと思います。

その小石はいらないから公園に置いていきなさいと大人は言います。

子どもは嫌がります、唯一無二の自分で見つけた小石なのです、手放したくない、しかし、大人な社会的勢力の強さを背景に、小石を公園に置いていかせようとします。子どもは抵抗します。そして、これらの行為もまた、子どものわがままと思われてしまいます。


子どもにとってはわがままではないのです。

自分中心に考えているこの年齢特有の思考の網により、自分本位に行動するようになっているだけです。

子どもに大人のようなふるまいを求めてもできません。

子どもには子どもの世界があり、子どもの時間軸があり、そして主張があります。子どもにとっては、自分の行為のすべてが自然なことなのです。


子どもが遊び続けたいと言って大人を困らせるとき、大人は、わがままをどうにか消し去りたい、わがままになる原因は遊んでいるからだ、今は遊べないんだよ、あの手この手で子どもの手から遊びを取り除こうとします。

しかしできません、子どもは遊びたいからです。

しかしまた別の側面として、子どもがわがままをやめるときがあります。

子どもが遊びを我慢するときです。成長と共にそういった姿が見られるようになります。

遊びと別のことを区別するようになっていきます。これは遊びなの、と我が子が4歳位のときに言われたことを思い出します。


話が逸れてしまいました。つまりは、子どもの遊びをただのわがままとして遠ざけてほしくないと思っているわけです。

子どもは遊びたい。それは自分のためです。

しかし子どもは自分を育てているから遊んでいるとは意識していません。

子どもが一心に遊ぶ、その積み重ねが成長です。

気がついたら大人になっているという表現でもいいかもしれません。


ここまで書いてきて、子どもにとって、遊びとは、とても大切で、しかし本人は遊びたいと思う以上に無意識に遊び出している状態になっているという考えに行き着きました。

それくらい子どもにとって遊びは自然なもので、この世の対象物はほとんど遊びの範疇で捉えていると言っても過言ではない。

子どもは遊んでいます。

そして、保育士はその子どもの遊びを助けます。子どもと遊びますし、子どもが遊んでいる姿を見守りさり気なく助けることもします。そうして、子どもの世界を支え、その発達を助けていきます。


子どもが自然に遊んでいる姿を守りたい。守るという意識なく守りたい。ただそばにいながら、子どもの遊びを支えたい。支えていると思われていないのに支えているが理想です。

陰ながら、黒子のように子どもの遊びを助けていきたいと思っています。

ただ、それは僕が保育士だからだと思います。仕事柄、遊びを通して子どもの成長を支えているので、どのようにして遊びを助けるのかを意識している。

本当のところは、自然偶発的にそこかしこで子どもの遊びが存在している世界で生きていたい。その一員としてのんびりとそばにいたい。子どものそばにいながら、その成長を喜びながら、生活を共にしたい。遊びを通して成長を助ける、や、遊びが子どもにとって大切だ、と敢えて言わなくても、遊びが自然なものとしてそこにある状態で、生活をつないでいけたら。

きっと、人類が進化していく過程で、人類はずっと遊び続けていたと思います。どんな大人も子どもでしたから、どんな子どもも赤ちゃんでしたから、生理的欲求を満たす行為以外では遊び続けていたはずです。その遊びが、様々な条件によって、狭まったり広がったりしながら、それでもこうして続いてきている。

伝承遊びとして存在する様々な遊びがありますが、伝承、と名付けなくても、そもそも遊びは、模倣と連続性に支えられながら、人類の進化の傍らにあり伝承されてきました。

きっとこれからも子どもは遊び続けるでしょう。遊びの内容に変化はあっても、その時の世相や流れに影響を受けながら遊び続けると思います。

さらに、遊び心を持ち続けている大人も一定数はいるのだと感じています。

遊ばないと人生は生きられない。人生は遊びである。人生なんておとぎ話さ。すべてが真理に繋がっていると思います。


遊ぶって大切です。ですが、大切です、と言うと、急に薄っぺらく感じます。当たり前に遊びがあって、子どもが遊んでいる姿を穏やかに眺めていられる時間がこれまで以上に増えてほしいと思います。

新型コロナウイルスの流行により、かき混ぜられた世界にこそ、遊びを。子どもたちの成長に欠かせないものです。


遊び遊びと意識しすぎると、良い遊びと悪い遊びのように、おかしな区別が生まれてしまいます。この区別からは、良い遊びをしていないとよりよく育っていかないといった、順序が逆の発想がある気がします。良い遊びをさせることはない、そもそも、子どもは遊んでいるのだから、その姿をそのままにしたらいい。子どもは大人の想像を軽々と超えていきます。自由に遊べる環境、遊びが子どものものであるという感覚、そのどちらも大切と思います。


さて、次に遊びについて書くのはいつになるでしょう。

長く書きましたが、ここでまず、一区切り。

最後まで読んでいただきありがとうございました。






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