企画の仕事は「呪」である、ってな話。

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昼間はわたくし、一応ゲームの企画の仕事をしております。

…ってなことを言うと、「どんな仕事?」って訊き返されることが結構多いんですが。
プログラマとかだったらイメージがしやすいんですけどね。

そして、この「どんな仕事?」を伝えるのが意外に難しい。
「ゲームの内容を考える」と言っても、結構わかってもらえないんだ^^;考えるだけなの?みたいな。もちろん書類を作ったりもするわけだけど。

そして実際のところ、ゲームの内容を僕らが考えてるかというと、案外そうでもなかったりする。例えばクライアントさんから「こういうゲームを作りたい」っていうような話であったり、経営的な要件などから、ある程度方向性が最初から決まっているっていうことも多いし、そうでなくても、初期段階のアイデアはプログラマやデザイナーも参加して皆で考えている。

じゃぁ、ゲームの企画屋:プランナーの仕事っていったい何なの?って話になると。あとは雑用みたいなことをしてることも多いんだけど、一番重要な仕事はもちろんそこではなくて。

「アイデアとして出された物事を整理して、ゲームとして成立するようにまとめる」これが結構大変。
アイデアだけを並べてみると、映画のダイジェスト版みたいなものにしかならない。個々のシーンは面白くても、それでは作品として、商品として成立はしないよねと。だから、そのシーンとシーンの間を埋めるための脚本や演出、設定などを全部考えないといけない。

そもそも、ダイジェスト版になるほど明確なシーンがあることもこの段階では稀で、漠然と「こんなことがしたい」というような話だけしかなかったりすることも多く、はたまた矛盾するアイデアが同時に出されていることも。

そうした時にどうするかというと、そうしたさまざまなアイデアから、「結局、求められているものはなんなのか」っていう本質的な部分を探し出してカタチにするわけですね。 出されたアイデアをそのまま実現しようとすると却って上手くいかないこと、多いんですな。それよりも、「なんでこういうアイデアを出したんだろう、要求されたんだろう」っていうところを考えて、そこに応えなくてはいけない。

プランナーはアイデアを考える仕事だと思われがちですが、自分のアイデアよりもむしろ、他人のアイデアをカタチにする仕事なんじゃないかと。これは他の業種の「企画」と呼ばれる仕事でもそうだと思う。クライアントの要望だったり、市場のニーズだったり、ユーザーの声だったりね。


さてさて。

そんな稼業において、実は一番重要かつ、毎日のようにやっている作業というのが、「名前を考えること」ではないかなと思っているわけですが。


製品名であったり、機能の名前であったり、変数やリストの名前であったり、フォルダやファイルの名前、またはメールの件名とかね。
どれも、一見して中身が想像でき、それに観た人がそれに対してどう行動するべきか、瞬時にわかるものである必要がある。
(これは企画の仕事に限らず、社会人にとって物凄く重要なスキルなので、学生さんとかは憶えといて損はないと思う!)


人が一生の内に何かに名前を付ける回数ってどのくらいだろうか。
記録したら、クリエイターと呼ばれる人達は、恐らく平均よりもかなり多い名前を何かに名付けまくっている。

実はこれって、とても重要な事だと思っています。


言葉は「呪」(しゅ)であると言う。人は無限に広がる世界の可能性の一側面を、自分の意識の範囲に限定することによって理解をする。それが「言葉」。

「名付ける」という行為は、まさに「物事を一定のレベルに限定」する行為にほかならない。

「呪いの言葉」は、人を記号化したり、カテゴライズしたり、一面だけを切り取ってその人の全体を表してしまう言葉です。「反革命」とか「非国民」とか。本来は多様で複雑な人間の存在を、単純化し、記号化してしまう。

(引用:「他者への憎悪は身を滅ぼす」内田樹が語る"呪いの時代"を生きる知恵 日刊サイゾー 2012年3月6日)

言葉ってのは、誤って使うと名付けられたものを堕落させる。「いじめ」とか「援交」とか「ものづくり」とかね。

内田樹さんは「呪いの言葉」ではなく、「祝福の言葉」についても語っている。これは、事象を一定のレベルに限定することなく、「それを語りつくすことができないという謙虚な態度を示す」言葉のことであると、上記の記事では語られていますが。

「呪」と「祝」って実は、語源としては同じものだったりする。「兄」が神主や祭主を表し、「ネ」は祭壇を、「ロ」はもちろん口を表す。祭壇の前で祈りをささげている姿が「祝」であり、発せられた祈りそのものが「呪」だというイメージでしょーか。

大いなる神の前でその偉大さを讃える謙虚な姿が「祝」であるのに対し、それを表すための言葉そのものは、偉大さの一側面を人間の意識のレベルに堕落させて表現するという、神をも恐れぬ尊大なものである。 そんな矛盾した認識が、「呪」という言葉にネガティブなイメージを与えたのかなと、勝手に思ってますが。


とはいえ、実際問題として仕事の上で名前をつけるにあたっては、謙虚に語りつくせない態度をとっているわけにはいかない。
言ってしまえば、この「呪い」が強ければ強いほどよい、ということにもなる。

人間の名前に「オセロ強い太郎」とかつけたら、余りにも限定的過ぎるけど、オセロの強い人のリストを作った時には、そのExcelファイルには「オセロが強い人のリスト」とつけるべき。 または、マンガやゲームに登場するキャラクターなら「オセロ強い太郎」みたいな名前をわざとつけて、そのストーリーの中でのイメージと役割を限定するのは有効な手法でもある。

しかし、だからこそ、マンガみたいな名前を実際の命ある人間につけるべきじゃないわけで。それはその人の可能性を限定し、堕落させる事になる。

こういった「名づけのレベル」を適切に把握する事って、凄く重要なセンスだなぁと思って。
というか、「センス」って呼ばれるものって、ほぼこの一点に集約されると言っても過言ではないんじゃないだろーか。


表現っていうのは、無限の時空から、その一部分を人間に理解できる範囲に限定し、切り出して具現化する、神をも畏れぬ一種の呪術であり、名前を付けるというのは、非常にシンプルなその一手法であると思う。

誰でも日常的にやっていることではある。
だが、自分のつけた名前を他人に評価してもらうことって、意外と少ない。

「ふわっとした何かをカタチにする」という企画屋の仕事において、いきなり企画書を書けとか膨大な仕様書をまとめろとかいう前に、「名前を付ける」っていうのは非常に有効なトレーニングになるんじゃないだろうか。

人に渾名をつけたり、なんか勝手に物事に名前をつけたり、子供の頃ってよくしてたと思う。

ああした中で、それが人に受け入れられたり受け入れられなかったりで、センスって磨かれていたのかも。

センスは教えられないとか、本人が意識して磨かないと、とか色々あることだけど、まず名前をつけてその「伝わりやすさ」と「レベルの適切さ」…すなわち「適切な呪いの強さ」を人に評価してもらうのって、意外と必要なことかもねと、そんな風に考えています。

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