2024.3.14 きいてませんねん

 デール・カーネギーの「人を動かす」という本を読んだ。

右がデール・カーネギーの人を動かす

この本に「人は自分の話を聞いてほしいものだ」と書いてあった。人を動かしたいなら、自分の言い分を話すより相手の話を注意深く聞くことが大事らしい。ブログを少し書いたらどんどん書きたくなるわたしも、きっと聞いてほしいのだろう。誰かに読んでほしいと思っていなくても、反応をもらえると素直に嬉しい。

 先日、整体の先生に喉のチャクラが閉まってる、言いたいことが言えてないので、ちゃんと伝える勇気を持とうと言われた。言えなかった想いがチャクラを締め付けているらしい。その時はピンと来なかったのだが、数日後に自分の癖を思い知ることになった。

 ほんの少しのことだが、事あるごとに自分の意見を伝えてくる人がいた。わたしは自分が書きたいように書いているし、わたしが動きやすいように段取りをしたり、旦那氏の手伝いでは税理士に言われた内容の仕事をしている。それに対して度々ご自身の意見を伝えてくれるのだが、批判的なものが多く、こうすればいいよとわたし本人は困っていないにも関わらず改善点を提示してくることがあった。言い方がよろしくないが正直なところ「あなたのこ意見要りませんねん」である。適当に流したり返事をするのだが、そういう人の前ではどうしても口数が減る。「あなたの意見聞いてません」と伝えるのがいいのだろうか。

 旦那氏にこの話をすると、話が終わる前に「なんでも口に出して言うたらええわけじゃないやろ」と返された。ガラガラと心にシャッターが閉まる。わたしは無言で旦那氏の側を離れた。ここでもわたしは「お前の意見は聞いてへんねん」である。それまで「なあなあ、ちょっと聞いてー」と馴れ馴れしかったテンションが「コイツには何を言うても一緒やな」と一気に冷たい川ができた。ここは口に出して言う場面だったように思う。わたしはご意見さんの話に対する同意と、どんな時になにを伝えればいいのかを旦那氏に一緒に考えて欲しかったのだ。言葉を飲み込んだ胸の辺りがもやもやと重い。

 翌日「人を動かす」を読んでいて気がついた。わたしもご意見さんも、旦那氏もみんな自分の話や意見を聞いてほしかったのだ。デール・カーネギーによると人に話を聞いてもらうと相手の重要感が増すらしい。どんな人でも「自分は特別だ」と思いたいのだ。これは大人の発達特性を持った人が病名を欲しがることに似ている。人と違うことを医者に証明してもらうことで自分が特別だと感じるようだ。実際、わたし自身もカウンセラーに自閉傾向が強いと言われたことで安心したり、旦那氏もADD傾向が強いと言われたことで結婚生活のすれ違いについて納得できるものがあった。「人と違う」ことにお墨付きをもらうことで特別感があるのだろう。そして発達特性に応じた個別対応をしてもらうことで、自己重要感が増すようだ。
 そう考えると、今までやらかしてきた過去が恥ずかしくなった。自分に起きた出来事を誰かに話すのことが愚かに思えてきた。「沈黙は金」という言葉が頭をよぎる。言いたいことを飲み込むなと言われたばかりだというのに、誰かと話したかった話題は触れずにしまっておきたくなる。こうやってわたしは言葉を飲み込んできたのかもしれない。

 その日の夜、旦那氏が隣に座り「昨日の話な、やってもうたと思ってん」と話し始めた。「うんうん」と彼の話を聞き、わたしも話を聞いてもらう。不思議と心が軽くなる。話を聞いてもらうことは愚かなことではない。話すことで感じたことを肯定し、思考の整理することで気持ちの置きどころができた気がした。
 寝る前にまた「人を動かす」を開いた。残りのページは少なかった。わたしは自閉傾向が強いらしく人の気持ちに対する配慮が足りない。他者が何を考え何を思うのか興味を持てず、知ろうともしなかったかもしれない。でもこれからは人の話、特に子どもたちの話に耳を傾けていきたいと思う。

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