2024.3.12 依代

 朝一番にどこに意識を合わせるのか。
 人は起きた瞬間からその日の予定を考え、ネガティブな出来事を思い出すらしいと本で読み、2.3日だけど観察してみた。スマホの目覚ましを止めて、もぞもぞとわたしのお腹を弄る末っ子の腕を下ろす。肩まで布団を引っ張り上げて、頭の中でお弁当作りの段取りをする。お弁当の前に洗濯機を回さないといけない。7:40には長女を起こし、7:50にはお弁当をふたつ仕上げておく。8:00に長男に声をかけ、末っ子にご飯を食べさせる。末っ子を保育所に送る前に2回目の洗濯を終わらせたい。続けざまに今日の段取りもしたかったが、予定が思い出せない。はぁーとため息をつき、寝返りを打った。隣で眠る体温の高い旦那氏のほうへ吸い寄せられる。寝返りで布団の隙間から冷たい空気が入ってきた。本当にネガティヴな思考から1日が始まってる。こんな始まりはいいことなさそうな気がしてどこに意識を合わせたいのかと自問する。ぼんやりしてきて思考が緩慢になり、大きな樹か鯨がいいなと自分の好きなものを思い出したところでスマホのアラームが鳴った。

 いつからか巨樹を見て回ることが多くなった。若い頃から城を見て回ったり、お寺の拝観は好きだった。神社にも行ってたと思う。旦那氏と付き合い、バイクに乗るようになってもそれなりにうろうろしていた。たまにだけど旅行にも行った。結婚して子どもができて、保育所と会社の往復で1日が終わるようになって、旦那氏もずっと仕事ばかりで日々の生活に疲れたころ、ちょくちょく神社に行くようになった。会社で隠れて読み漁ってたふわふわスピリチュアルなブロガーが紹介していた神社にも足を運ぶようになった。奈良や和歌山の神社には立派な樹木が多くて、神社より樹が目的になった。同じように磐座にも惹かれて、磐座巡りもするようになった。山を歩く機会が増え、磐座や梢の葉擦れの音が語りかけてくる気がした。時折り、それらは言葉となりわたしのスマホのメモ欄を埋めるようになった。頭がおかしいと言われればそうかもしれない。ただ樹木や磐座からもらえる言葉はわたしにとっては気付きの多いものだった。

 先日の講座で上野大照さんに教えてもらったケン・ウィルバーの発達段階に呪術的段階というものがある。

問題は、自然の全てに対して、人間的な特質を見出しているということです。それは単に、人間以外のものを「擬人化」することによる呪術的な思考にすぎません。主体と客体を十分に分離ないし区別できていないために、両者を混同しており、それゆえに、擬人的で空想的な作用によって、主体と客体は互いに影響を与えることができると思われているにすぎないのです。

インテグラル理論を体感する 
統合的成長のためのマインドフルネス論 42p
ケン・ウィルバー著 角林奨訳
コスモス・ライブラリー

この段階ではアミニズム的なものの見方をするらしく、石や木が話すという。話を聞きながら、自分はまさにこの段階にいるのではと思った。そして、それを自他の分離が出来ていないことが原因だとするケン・ウィルバーの説に、胃をまち針で刺された気がした。

 そして昨日、子どもの卒業式から受験、バスケットやサッカー空手と目白押しの予定、たくさんの人に会う日々に疲れて、ひとりで1時間ほど車を走らせて、樹齢千年以上と言われる野間の大けやきに会いに行った。白湯の入った水筒を持ち、木の近くに座る。なにもすることがなく考えることもなく、ただぼけっと幹から枝の先まで視線を移動して、たまにスマホを触る。いま座っている場所の下にもこの幹や枝よりもたくさんの根っこが張り巡らされているだろう。先には菌糸が伸び、根っことどのくらいの大きなになるのか想像もつかない。優しい風は冷たくかんじるけれど、日差しは温かい。木に直接触れることがなくても、大きなものに包まれているような気がする。日々追加されるG.Wまでの予定や段取りにざわついていた心が凪いでいく。バラバラに鳴らしたメトロノームがいつの間にか揃い同じリズムを刻むように、身体のどこかが樹と共振しているのだと思った。気がつくと小一時間が経っていた。


私たちは依代なのだそうだ。
木は虫たちの依代で、菌や菌糸は木そのものらしい。私たちの身体に住んでいる菌達の総数は細胞よりも多い。私たちは菌そのものだと言える。

ではこの言葉を繰り出す思考はなんなのだろう。
私が野間の大けやきに感じている共振は、菌の共振なのかもしれない。わたしたちは菌を使って自然や植物と対話し、地球の上で共存している。
人は言葉があるから分断が起こるのではないだろうか。人の世界は複雑化しすぎたのかもしれない。

地球は私たちの依代で宿主だ。
肚でモノを考える。
肚は腸で菌だ。
昔の人は頭で情報を整理し、大事な決断は肚の菌にお伺いをたてていたのかもしれない。だから肚を括るのだ。

 そんなことをスマホのメモに打ち込んで立ち上がる。自分はわたしという主体と野間の大けやきという客体の区別が出来ていないのかもしれない。樹木と対話や共振はありえないのかもしれない。土と人間の肚に存在する菌のバランスは似ているときく。そんな話を聞く度に人と木は共振共鳴するのではないかと思ってしまう。そして、人も木も古来から様々な方法で対話し共存してきたのだと感じずにはいられない。
 明日の朝もわたしは今日のけやきを思い出し、千年の時を生きる木に意識を合わせてみたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?