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シャドウのカタチ。

最近如何にもこうにもイライラする人がいる。
その人はやることなすこと現実から目を逸せるための選択をしているように見える。どんなに逃げても正面から向き合うことでしか答えが出ないこともあるのに。

キッチンでザクザクとキャベツを刻む。リズム良く細くなるキャベツをみていると気持ちがいい。目はキャベツを見ているのに、頭の中はなぜイライラするのかと原因を探しに向かう。

元々はたまに顔を合わせるくらいで噂話を聞くこともほとんどなかったが、最近その人の逃避先がわたしにとっても大切な人のところになったようで度々話を聞くようになった。
こんなときいろいろな勉強をしていてよかったなと思う 。

心理占星術家のnico先生はもやもやするときは自分の領域を侵されたからだと話していた。きちんと境界線を引くことで、これ以上は入ってほしくないと自分にも相手にも示せと言う。わたしの拠り所を他者に侵されたことにイライラともやもやが反応しているのは理解できる。

一方で心理カウンセラーの上野大照さんや文章講座の史子先生に教えていただいた内容から、シャドウの反応ではないかと見当をつけてみた。シャドウとは自分の中の禁止令もしくは拮抗禁止令なのだという。わたしのシャドウが「現実から目を逸らすこと」「問題から逃げること」を禁止しているのかもしれない。現実逃避を続けている人をみるとわたしの中の禁止令が発動しイライラと感情的、攻撃的になる気がする。
*禁止令についてはたくさん記事があるので気になる方はGoogleで検索を。

向き合うことのできない問題は多かれ少なかれ誰でも抱えていて、わたしの見て見ぬ振りもかなり根深い。わたしの場合、問題や課題は子育てに関係することが多いので、目を逸せてる間に子どもは大きくなってしまう。目は背けられても逃げることはできないのだ。

目を逸らせたまま生きていくこともできるだろう。問題と向き合うことが幸せに繋がるとは限らない。問題という壁を乗り越えることは人間的な成長を促すであろうこと想像はできるが、人としての成長なんて興味がない人だっている。
それでも目を背けたくなるほど辛いことがあるのではないかと聞いてみたい。辛いから苦しい逃げるのではないか。その辛さの原因を取り除かない限り、同じことが起こったとき毎回目を瞑りやり過ごさないといけないのは、耐えるか逃げるという選択しかできなくなりそうでわたしは怖い。
逃げるのが悪いわけではない。ただ、何から逃げているのかを見るくらいしてもいいのではないか。そして今後のために対策をすれば少しでも楽に生きられるのではないか。
わたしの勝手な偏見で向き合うことが正義のように他者へ意見を押し付けてしまいそうになる。

それはわたし自身が逃げ続けているからなのかもしれない。逃げることを赦さない、わたしのシャドウは、普通や正義を振り翳し相手を追い詰めてじわじわと首を絞める。

自分の首を絞めているのはわたし自身で、何のために自分の首を絞めているのか、まだわからない。胸の奥にはよくわからない自己否定と生まれてきたことへの罪悪感みたいなものがある気がする。
わたしをイライラさせるあの人は、わたしのシャドウなのだろうか。

ここまで書いて、ふとこの一連のイライラはダミーのような気がした。逃げてるあの人はシンパシーでわたしがエンパシー的な反応をしているだけかもしれない。わたしもシンパシー的な対応をしたいのに、エンパシーにならざるを得ない状況についての不満に見えてくる。

そんなことを考え出したら、頭がフリーズしてきたので、タイミングよく帰宅した旦那氏にあるセリフを言ってもらった。

「お前、偉そうに言うてるけどなんもできてないやん。現実見て少しでも前に進めよ」

自分で考えた言葉なのに、心臓が痛い。
やっぱりシャドウかもしれない。
自分の境界線を引き直し、今の現実から逃げずに立ち向かおうと思う。

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