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#1169 上田薫から学んだこと

今回は、上田薫の名著『知られざる教育』『人間形成の論理』『ずれによる創造』から学んだことをまとめていきたい。

系統的知識はない

系統的知識、つまり子どもの外側に絶対的に存在する抽象的知識というものは無力である。

そのような知識を、教師が子どもに注入したとしても、子どもはそれを具体的な場面で転移させることはできない。

そもそも絶対的な系統的知識というものは存在しない。

知識というものは、ネットワーク構造をしており、他の知識と関連し合っている。

そして、そのような知識は具体的な問題解決を経験することで、子どもは主体的に身につけることができる。

つまり、系統というのは、子ども一人ひとりの中に個性的に実現されるのである。

それを、国の役人や教師が「これは重要だ」「このような順番で教えよう」と恣意的な基準で規定することはできない。

したがって、系統的知識は子どもの外側に歴然とあるわけではなく、問題解決の過程で必要により獲得されていくのである。

学習対象と主体との関係

子どもは学習対象を、「関係の連続的追究」として理解していく。

上記で述べたとおり、知識はネットワーク構造をしているので、その関係性を永遠に追究し続けるのである。

さらに重要なことは、学習対象という「客体」を子どもという「主体」が自らとの関係づけて捉えるということである。

「対象と自分はどのような関係なのか」「自分は対象とどのようにつながるべきなのか」を考える。

このように、「学習対象を自分から離して捉える」のではなく、「学習対象と自分との関係を捉える」視点が重要なのである。

「わかっているけどできない」わけ

人間はある知識をもっている。

「~してはいけない」「~するべきだ」というものだ。

しかし、そのような知識をもっていても、実際の生活場面ではその知識をうまく活用することができない。

まさに「わかっているけどできない」のである。

それは人間の内部に、「~してはいけない」「~するべきだ」という知識が無数に存在しているからである。

そのような知識同士が複雑に混在しているから、「~してはいけない」場面であるのに、別の「~するべきだ」が発動してしまい、結局失敗してしまうのだ。

逆の場合も同様で、「~するべき」ときにもかかわらず、「~してはいけない」が発動してしまい、失敗するのである。

知識同士がうまく関連し、適切に問題解決ができるようにするには、熟達が必要なのである。

問題の条件

知識は他者から注入されるべきではないし、注入することなどできない。

知識は問題解決により、主体的個性的に獲得される。

では、「問題」とはどのような条件があるのか。

それは
①視野の中にあるもの
②正対するもの
③未決定性のあるもの
である。

問題は、子どもの視野の中にあるべきものだ。

視野の外の問題を主体的に解決しようとは思えないのだ。

また、問題は、子どもと正対するものであるべきだ。

それにより、子どもは問題と真剣に対決する。

さらに、問題は、未決定性がなければならない。

「完全解決する」という決定性があっては学習が止まってしまう。

「常に解決を目指す」という未決定性により、学習が永続的に続いていく。

ズレからズレへ

学習とは、「ズレ」から「ズレ」への連続的過程である。

「わからない」から「わかった」という過程ではない。

「わからない」から「わからない」という過程なのである。

だからこそ、学習が永続的に続くのだ。

つまり、教育とは「ひっくり返しの連続」なのである。

これは「動的相対主義」の考え方が基盤にある。

一瞬、「わかった」ように見えたことも「仮構」であり、それは「結論」ではない。

結論が導かれることはなく、次の「わからない」が見えてくる。

まさに、「仮構の一を媒介とする一(結論)への志向」なのである。

さらに、これは学習だけでなく、「話し合い」にも当てはまる。

人間は自分の考え・思想を完全に正しく表現しきることはできない。

これが「第一のズレ」である。 

さらに、聞き手が自分の話を解釈する際に「第二のズレ」が生じる。

そして、話し合いを重ねる過程で、新しいズレが生じていく。

このように、話し合いでは「完全に意見が一致する」ことはありえない。

常に新しいズレが生じ、それにより話し合いが深まり、発展していくのである。

評価の総合性

子どもの評価は終点であってはいけない。

子どもは常に学習し、常に発達・成長している。

評価は、出発点であり、途中地点なのである。

評価により、子どもの個性を立体的に捉えることが重要なのである。

だとしたら、子どもを一元的に捉えようとする点数主義から脱却しなければならない。

つまり、評価は動的・多面的・継続的でなければならない。

評価基準は子どもの実態に応じて動的に変動させる。

さらに、子どもの個性・能力を多面的に評価する。

そして、「評価して終わり」ではなく、継続的に評価をしていく。

このような総合的な評価が必要なのである。

道徳と知識の共通性

道徳と知識とは不可分のものである。

知識が動的相対的であるのと同様に、道徳も動的相対的である。

子どもという主体が知識との関係を考えるのと同様に、特定の道徳との関係も主体的に考える必要がある。

そして、知識や道徳は、子ども一人ひとりの内部に、具体的個性的に生起するのだ。

だとしたら、知識は他者から注入されるべきものではないし、道徳も他者から「こうあるべし」と当為を示されるべきものではない。

知識も道徳も、問題解決の過程を通して、子どもが具体的個性的に獲得していくのである。

抽象の働き

抽象は「悪」ではない。

抽象を「絶対」とし、「そこから始めること」または「そこをゴールとすること」が悪なのである。

ゴールとしての抽象を排除すべきなのである。

ゴールは常に「具体」であり、永遠に完結することはない。

抽象は、その無限のプロセスの媒介者としてのみ意味をもつのだ。

抽象は悪なのではなく、正しく働かせることが必要なのだ。

具体を導いていくためにこそ、抽象は活用されるのである。

2つの相対性

知識や学習について考えるとき、2つの相対性を重視することが必要だ。

1つは、個人の知識獲得と活用における相対性である。

人間は、絶対的な知識というものを獲得し、またそれを活用することはできない。

存在しえないからである。

人間は、常に相対的な知識を個性的に獲得し、それを個性的に活用していくのである。

その内実は、人の数だけ多様なのである。

もう1つは、知識自身の相対性である。

くり返すが、絶対的な知識というものは存在しない。

時代の変化により、知識自体が自己否定を繰り返し、更新され続ける。

この世界に「絶対的な1つの真理」は存在しないのである。

それは「数個の論理」であり、「具体性の論理」なのである。

子どもたちが今日学んだ知識は、数年後には役に立たないかもしれないし、内容が変わっているかもしれない。

だからこそ、学習指導要領の内容も時代と共に変遷されていく。

重要なことは、絶対的な知識を獲得し、安心しきることではない。

必要な知識を獲得し、それを学力として、自己を変革していく力に変えることである。

それが基礎学力である。

基礎学力は問題解決により獲得され、別の問題解決場面で応用される。

自己変革の力をつける場所が「学校」なのである。

これにより、獲得された知識自体をも変えていくことができ、自己をも変革していけるのだ。

動的な目標と計画

子どもの学習・発達というのは、動的個性的である。

それは「人間」であるから当然のことだ。

そして、教育をする教師も同じ「人間」である。

だとすれば、指導の最初に設定した「目標」「指導計画」というものは、子どもの学習に応じて、常に修正されなければならない。

目標や計画を「絶対」とし、教師側が変わることなく、子どもの方を無理に変えようとすることこそ、「注入」である。

そうではなく、目標や計画を動的なものとし、子どもの学びに応じて変動させる。

このように、教師も子どもも常に「動く」ことが重要なのである。

それが「人間と人間の間で営まれる教育」である。

教師の指導性と子どもの主体性

教師の指導性と子どもの主体性は矛盾しない。

教師は自信をもって、自分なりの指導をすればよい。

しかし、それは「注入」することを意味しない。

教師は自分のもつ「相対的な知識」を自覚し、「全て教えきることはできない」という姿勢で指導に当たる。

子どもは「知識の相対性」を前提にし、「教師の指導を全て受け止めようとしない」姿勢で学習する。

自分なりに思考し、ときには教師を批判してもよいのだ。

このように、一人ひとりの子どもが、教師の指導を媒介にし、個性的具体的に知識を形成する。

その場が「教育」であり、「授業」なのである。

したがって、教師の指導性と子どもの主体性は矛盾しえない。

教師は自信をもって指導をし、子どもも個性的に学習すればよいのである。

間接的な指導

教師の指導は常に「間接的」であるべきだ。

子どもに直接的に指導する「命令」「強制」「教授」「注入」をしてはいけない。

なぜなら、知識や道徳というものは相対的であるからだ。

それらを子どもがどう受け止め、どう取り入れるかは、子ども本人に委ねられている。

だからこそ、教師は「~すべき」「~しなさい」という直接的指導をしてはいけない。

それは「注入主義」の典型なのである。

教師は、間接的に指導をし、子どもに影響を与えるだけである。

それを個性的に受け止めるのは子どもであり、受け止めないことも認めなければならないのである。


ここまで、上田薫の書から学んだことをザっと整理してきた。

キーワードは「具体」「数個」「相対」「関係」「ズレ(問題)」「過程」「主体(個性)」「柔軟(動的)」「全体(総合)」である。

これらのワードが有機的に関連し、氏の思想が出来上がっている。

この論理は、まさに「人間形成の論理」と言える。

ぜひとも、この学びを日々の教育実践に生かしていきたい。

では。

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