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#1774 「叱る」という一方的な暴力

ここ最近は、学級の子どもたちの不適切行動を見ても、怒ったり、叱ったりしないようにしている。

「子どもだから、できなくて当然」「トラブルがあって当たり前」と捉えることができるようになってきた。

これまでの経験上、こちらが感情的になって、該当の子どもを叱りつけても、さほど効果がないことを実感しているからだ。

なので、叱らずに「諭す」ように心がけている。

まずは、「叱る」ことのデメリットをざっと洗い出していきたい。

・叱ると、学級の雰囲気が悪くなる。
・叱ると、教師自身の気持ちにモヤモヤが残る。
・叱ることは「力のぶつかり合い」なので、子ども側が敗者となる。
・子ども同士も、お互いを怒り口調で注意し合うようになる。
・叱ることに子どもが慣れてくる。
・叱っても子どもは変わらないので、叱る連鎖を生む。
・叱っても、子どもは思考停止になるだけで、改善の必要性を感じない。
・叱られることに馴化するので、もっと強く叱らなければいけなくなる。
・叱られると、心の傷になって残ることがある。
・叱られないために、何も行動しなくなる。
・叱られても、自らの行動を反省することはない。
・叱ると、子どもとの信頼関係を失う。
・叱ると、教師を嫌いになり、授業も嫌いになる。
・叱られてばかりの子どもが「悪い子」のレッテルを貼られる。

このように、「叱る」という手段は、デメリットが多すぎるのである。

命に危険が及ぶような緊急事態のときは、大きな声を出してでも、すぐに制止する必要がある。

このような例外はあるが、それ以外の場面では、基本的に「叱る」という選択をする必要はないのである。

「叱る」という手段は、権力の強い教師が、立場の弱い子どもに対して、一方的に言葉を浴びせる行為である。

この構造に「対等性」は存在しない。

教師側の怒りの感情も伴う。

そして、言葉が短くなり、乱暴になる。

まさに「暴力」と同じである。

それを未熟な子どもに「一方的に」行うのが、「叱る」という行為なのだ。

これでは、子どもは萎縮したり、反発したりする。

叱られても、敗者となった子どもには「負の感情」だけが残る。

なので、自分の行為を省みることなどなく、不適切行動は改善されないのだ。

そこで、必要となるのが「教え諭す」「対話して気づかせる」という選択である。

子どもが不適切行動を改めていくためには、自分の行為を反省する機会が必要だ。

つまり、「思考」が必要なのである。

しかし、教師が一方的に叱りつけても、子どもは思考停止に陥るだけだ。

そうではなく、子どもと対等な立場で、「対話」をするのである。

「何があったの?」と、まずは子どもの言い分を聞く。

そして、「そうだったんだ」「その気持ちはわかる」と共感する。

でも、「自分のした行動をどう思う?」「どうすればよかったのかな?」と行為の反省を促す。

そして、「一人の人間」という立場で、教師側の意見も伝える。

これにより、子どもは自分の行為の「改善の必要性」を認識できるようになる。

このような「諭す」という手段を用いることで、「叱る」ときのデメリットをなくし、子どもを成長に導いていくことができるのだ。

子どもの問題行動・不適切行動・トラブルは、恰好の「教材」なのである。

子どもたちが起こした問題を、いかに「学級のみんなが学べる教材」「本人が成長できる教材」に昇華できるかがポイントとなる。

これからも私は、子どもたちを「叱る」という選択ではなく、「諭す」という選択をしていきたい。

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