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「自己実現」について考え考え考えた果て

つい先日、知人との話の中で
「これから“自分がこうなりたい”“こういう自分になりたい”というものはありますか?」
と尋ねられることがありました。

「……えぇ…っと… なりたい像ですかぁ…?」

「自己実現」についての問いかけに対して
答えを持ち合わせていなかった私は考え考え考えあぐねた結果

「模索中…ですかね………」

と中2っぽい返答をしてしまいました。
いや、中2の皆さんに失礼や。すみません。

一旦その話を終えても
「自己実現」「なりたい自分」について返答できなかったこと、なぜ答えられなかったのかを結構考え込んでしまいました。

なぜだろう。


子どもの頃から目標は明確だった。それが美徳とされている時代でもあった。今思えば、10代そこそこの限られた人間関係、人生経験の中で何かを選びとるって無茶な話だと思うのだけど、それでもその当時は自分がやり甲斐があるんじゃないかとか、気持ちが強く惹かれるものとかに素直に従い

「障害がある子が通う施設で働きたい」

と、福祉を専攻できる大学を選び、その後は保育士として施設で従事した。
その後なんじゃいかんじゃいあり
「看護師になろう」と決め、それがステージクリアしたら「優しい看護師になりたい」その軸が出来上がってきたら「認定看護師や専門看護師もいいなぁ〜」と割とはっきりと明確に自分のなりたい像を話せていた時期もあったはあった。
自己実現という意味ではその時「やりたいこと」をやってきたと思うし、させてもらったと思う。

しかし、鬱を患い自分の両親との関係性を見つめ直し、親の影響、特に母親の性格の影響を受けて育ったことで思考に癖があることを知った私は、それまで自分の意思と思っていたものは自分の意思ではなかったのかもしれないという疑念を持つようになった。(親を責めるものではない。ただそうだったというだけの話。)


「看護師になろう」も「障害がある子どもの施設で働きたい」も私の意思ではなかったのか?
私自身の脳を駆使して思考を巡らし選び取り
これまで構築してきたと思っていたアイデンティティーがぐらつき始めた。
多分、この時一旦それまでの私は私から乖離した。(気がする)

同時期から仏教に深く向き合うようになり、あまねく世界の縁をひしひしと受け取り始め、
意思を伴いその都度選択し社会と関わる“自分”と思っていた存在が、親子関係や恋人関係などの限定的なものを超越した何かしら誰かしらの影響を受けて成り立っていると感じた時、
急に自分の存在が非常に不確かで曖昧でぼやけて、自分ではあるけど自分ではない感覚が生じてた。

「私は一体なんなんだ?」

そう考えると、「自己」「実現」って言葉自体、すでに私の中では成り立たず、答えがあったとしてもその答えは何かしらの影響を受けて如何様にも変わっていくものであり断定はできないと感じた。

そこで問いかけられた「自己実現」についての今の私が精一杯出した内々の答えとして

“与えられた命を大切に精一杯生きること”

に尽きた。

で、そうだったとして私はそれを実現できているのか?
少なくともこうやってnote書いてる自分がいる今、与えられた命を生きるという点では、まぁ今んとこオッケーなんじゃないかと。

しかし
自分を大切にしているか?
自分をつくりあげてくれているものたちを大切にしているか?していたか?
と問いたら疑問符。
おそらくそれは命ある限り泥まみれになってもたゆまずその努力をしなきゃいけないんだろう。それが結果的に精一杯生きることになるのかな、と。


が…人間社会にいる以上私の出した答えが「は?」の人もいるだろうし以前の私なら「何言ってんのこの人」だし、
文章に起こすにはもう少し断言的でキャッチーで仏教っぽくない文言が必要なんだろうなぁと編集したのがこれ。

「寿命まで自他ともに対して誠実に生きる努力をできる人」

キャッチーでもなんでもない。

がしかし、これが今の私では表現の限界。
きれいごとっぽいな。でも、きれいごと上等だ。
このきれいごとの底にはちゃんと泥々が見えるし見えたから。どろっどろの。

「努力」というのもいかがなもんかとも思ったが、今はキャパオーバーなのでここは考えない。
のちのち「努力」って言っちゃってるよテヘペロの時期が来るんだろう。

というわけで、キャッチーでも何でもない自己実現への答えはお相手にお返しすることができました。

最後まで最後までお読みいただきありがとうございます。おかげでスッキリしました。

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