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退屈の時間に。

めちゃめちゃ久しぶりにnoteを更新します。

大切な大切な日々を過ごす中で、毎日新たな感動の瞬間に出逢うものの、
書き留めたものを発信することもおサボりしていました…
あれ、私は一体何をしていたのだろうか。
今回はこの問いに対しての私の文章を投稿します。
先月からKOTOWARIフェローシップが始まり、毎週のオンラインセミナーで(ようやく?)色々モヤモヤし始めたことを振り返って書いてみました。
*振り返り課題として提出したものを少しアレンジしてます。

「普段、農作業以外の暇な時間って何しているの?」


 大学を休学し、KOTOWARI会津サマースクールで頂いた食材を提供してくださった会津美里町にある有機農家、自然農法「無」の会に今年の5月から滞在している私は、農園を訪ねに来た友人たちからよくこの質問をされます。そして私はその時、大体こう答えます。
「ボーッと、考え事してるかな。」
 小さな頃から何かしら考え事をすることが好きで、会津にいるときも考え事をしていることは確かです。ただこの返事をする度に、常に考え事をしている訳でもないと自覚しつつ、考え事をしているようにしようと自分自身を誤魔化しているような、どこかもどかしい気分にもなります。
私は、暇な時間に何をしているのだろうか。
本当は一体、何をしているのだろうか。

その場凌ぎの私のこの返答に対し、ようやくじっくりと向き合い自分自身に問うことができたのが第1回目のフェローシップでした。
この文章で、改めて暇な時間に一体何をしているのかという問いと私の持つ違和感についてフェローシップでの学びと共に整理していきたいと思います。

 フェローシップの事前課題のリーディングの一つに『暇と退屈の倫理学』國分功一郎著がありました。著書で述べられていた、人間は常に退屈に耐えられないから気晴らしをし、その気晴らしでは<欲望の対象>と<欲望の原因>の取り違えが生じているということに関して、このパスカルの主張は私が日常的に世間に対して感じる不自然さと同様の言い換えだと読み流していました。この「<欲望の対象>と<欲望の原因>の取り違え」というのは、つまり、「自分が追い求めるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる」状態のことです。パスカルの例えでいうと、ウサギ狩りをする人はウサギ<欲望の対象>を手に入れるためにウサギ狩りを行うのではなく、彼らが欲しているのは「不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らわしてくれる騒ぎ」だということです。こういう文章を読むと、ジャニヲタの妹を思い浮かべては「あぁ、推し<欲望の対象>は誰でもよくて、ただ気晴らしにキャーキャー言いたいだけなんだろうな」なんて思い、すごく納得してしまいます。(笑)現に妹は推しが数ヶ月単位でよく変わるのです。(笑)
 このように考えると、世の中は気晴らしをするための興奮材料を探し求めている人たちが大抵だと虚無感を抱きます。一方で、これら大抵の人々の行動にも各々に何かしらの原因があるから真実が隠蔽されるようで複雑なのだと、虚無感から逃避する理由を作ろうとします。そして、これ以上深入りしても仕方がないと半ば諦めていた時に目についた著書の文章がこちらです。

「そんな風にして<欲望の対象>と<欲望の原因>の取り違えを指摘している君のような人こそ、もっともおろかな者だ。」

…これは、今の私のことではないか。

 第1回目のフェローシップで、著書を読み「ギクっとしたポイント」についてグループで議論した際に、私はこのもっともおろかな者だというパスカルの指摘について投げかけました。すると、比較的似たような考えを持っていたメンバーが退屈な時間を人がどのような行動で過ごすかについて3層のレイヤーに区分して考えをシェアしてくれました。

①主体的に退屈な時間を作っている層(仙人のような修行僧)
②<欲望の対象>と<欲望の原因>の取り違えを認識しているがそのままの行動をしている層
③<欲望の対象>と<欲望の原因>の取り違えに気づいていない層

 シェアをしてくれた彼女は、「自分は①を目指す②かな。」や「もはや③の層の人たちが何も知らなくて本人たちにとってはそれが1番幸せなのでは」等、色々意見を述べてくれましたが、私自身はどれにも当てはまらないような気がしてなりませんでした
 この区分する考えに対してはいずれも共感できました。ただ、自分をどこかに分類させることを機械的な作業だと感じ、当てはめることで個性を犠牲にしてしまうような気がしたのです。3層に分けている時点で世の中を俯瞰し他人事として捉えているのではないか、そしてどれにも当てはめられない自分自身だけ特別視しているような傲慢な私を惨めに思いました。そんな違和感を持っていた中、どの層にいるかと問われた時に、咄嗟に私は「どちらかというと①と②の間にいると思う。」と濁したように答えました。そして、自分の感じたことと出てきた言葉に生じた大きな溝と、また私自身が暇な時間に一体何をしているのかについて思うように言葉にできない息苦しさが心の奥底で引っかかったままグループでの議論は終わりました。この一時の沈滞を経た後、私自身の暇な時間に何をしているのかという問いかけに対する答えが見つからず、世間に対しては浅はかにそして自分自身と一定の距離を置き、どこか蔑むように捉えている私はパスカルにこう指摘されるに違いありません。

「君はもっともおろかな者よりも、おろかな者だ」

と。

 この空虚感に苛まれている時間に、私は暇な時に一体何をしているのだろうかという問いにヒントを与えてくれたのが、もう一つの事前課題のリーディングの『考えてごらん』クリシュナムルティ著でした。クリシュナムルティも言うように、やはり人間誰もがひとりになることを、どんな気晴らしもなしでいることを恐れています。この気晴らしから離れ、内的にひとりとなり寂しさから自由である人が真の人間であるというのがクリシュナムルティの考えです。著書の「聴くということ」では、彼は人の話を聴く時に、静まりかえった心で話以外のあらゆるものを聴くことで心が自由になり単なる言葉の表現を乗り越えた大いなる美しさと洞察の深みを持つ変革を感じることができると私たちに伝えています。この変革に気づくことで、真理に近づき幸せを見出すことができるようです。
 そこで私はふと耳を澄ませてみました。その瞬間、私は「考え事をしている」と人に言っていた暇な時間は「聴いている」ことが多いと明らかに気づくことができました。

 会津の大自然に囲まれて。
 空を見上げれば、雲がゆっくりと動く音や気持ちのいい風の音、鳥のさえずりが聴こえます。この音を聴き、私の穏やかな毎日が始まります。
 前を向いて歩けば、大地を踏みしめる感覚と同時に、背中を押してくれる温かい太陽の声が聴こえます。私はこの声を聴くことで、一歩一歩真っ直ぐ前へ進む勇気のエネルギーを受け取っています。
 畑に行けば、カエル、芋虫、蝶、トンボ…たくさんの生き物が「今日も元気かい?」と話しかけてくれます。そして何より愛情いっぱいで育ったお野菜たちが生き生きとお話をしてくれます。この会話を通して、あらゆる生命の尊さを実感することができます。

自然が私に語りかけてくれる声は、軽やかでやさしく、美しい

のです。そんな愛に包まれた様々な声を聴きながら、人の声に耳を傾けると、話し声と共にその人の雰囲気やぬくもり、その人の本心のようなものを感じ取ることができます。そうすると、私なりに人に寄り添うことができるようになります。また、落ち着いて私自身の声にも耳を傾けることができます。静かに耳を澄ませると本当にたくさんの音が聴こえるのです。言われずとも私はこれらの声を聴いて過ごしていたんだと、クリシュナムルティの文章を読むことで実感することができました。


その瞬間に、暇な時間に何をしているのかという問いに対する答えが現れてきたのです。

「声を、聴いています。」


 ただ耳に入ってくる周囲の音や会話をそのまま聞くのではなく、私自身を取り巻く大自然の声を。私を支えてくれている、大切な人たちの声を。今の私をつくっている、私自身の声を。音になっていない、言葉にできないものも含めて、まるごと全部。
「私は何を、何故、どのように聴いているのだろう」
そのように自分自身に問うようになって初めて、聴くことの意味を見出し、そしてその時に初めて退屈な時間に私は自分自身を見つめ直して丁寧に向き合うことができるのだと気づくことができました。

 「暇な時間は、声を聴いてる」という私の返答は、果たしてパスカルのいう「<欲望の対象>と<欲望の原因>の取り違え」がない状態といえるのでしょうか。ただ明らかになったのは私は暇な時間に様々な声を聴いているということです。この「聴くこと」がただ自然に音やそれらの意義を見出すものである場合には、今回の気づきのように新しい発見を積み重ねてくれることだと腑に落ちています。また、私の「聴くこと」はクリシュナムルティの文章の「聴くということ」を読んで気づいたものではあるけれど、彼のいうこととどこまでつながっているかは不明瞭です。しかし、自分なりの「聴くこと」やそこから得られる感動を大切にすることで自分と丁寧に向き合うことができるのではという糸口が掴めたこの感覚を胸に刻み、日々の生活もフェローシップにも真摯に取り組みたいです。


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