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支援者が「障がいを持つ人の気持ち」「家族の気持ち」を理解すること(は、恐らくできない)

表題からすると、支援者として失格だと思われるかもしれない。しかし、支援者である私が、もし、相手に「障がいを持つ私の気持ちがあなたにわかりますか?」「障がいを抱える子をもつ家族の気持ちがわかりますか?」そう問われたら、素直に「それは簡単にできるものではないし、むしろできないと思う」と言い切ると思う。むしろ、そう易々と理解できるものであれば、私は、日々、こんなに支援で悩む必要はないはずだし、業務以外でも、自分が行なってきた支援を振り返ることなんてないはずだ。

私は、日々、自分のやってきた支援に対して「ネガティブ」に考えている。ひとりの利用者に対して、「その気持ち、よくわかります!」なんて、自信を持っていうことが果たして私にできるだろうか。支援者として「わかったふり」もできないし、したとしても、最終的には相手を裏切ることにもつながると思う。同じ障がい者同士でも、家族同士でも、本質的には理解できないだろう。そもそも夫婦でもできていない。あくまで共通する部分でつながっているだけだと思う。私にできるには、その思いに寄り添うことであり、少しでも理解しようと努めることであって、明確に理解することではない(哲学的だが、実際にそう思っている)。大切なのは、一歩でも近づこうと努めること。その背景には、そっと教えてもらうといった気持ちがそこに生まれるはずなのだ。

生きづらさを抱える、介助のために極度に疲れている、子に障がいがわかって将来への不安と心配に苛まれている、そんな方々の思いに容易に「専門家だから理解できる」「当事者だから理解できる」なんて果たして言えるだろうか。私たちにできることは、そういった家族のことばに耳を傾けることくらいしかできないのだ。ましてや、それ以上のことを求められても、どこまで応え続けられるか私にはわからない。本当に大丈夫にならないと本来は「大丈夫」とはいえないかもしれないが、少なくとも、私がそこにいるときは、大丈夫なときであってほしいと願っている。その願いながら対応することが重要なのだと思っている。

当事者であっても、同じ当事者同士理解できるかと言われれば、それは容易ではないと思っている。最近は、ピアサポーターも重視されつつある。しかし、当事者が必ずしも当事者ばかりを求めるとは限らない。サービスを利用したい人が、必ずしも当事者とその家族が運営する事業所を選ぶとも限らない(ピアサポーターや当事者団体を否定しているのではない)。そこには、自分に対する理解だけを求める人ばかりではないということだと思う。結局、必要となるのは、相手に対して常に少しでも歩み寄ろうとする姿勢なのだろう。その背景には、相談援助技術があり、対人援助技術があると思う。「当事者だから、利用者も素直に耳を傾ける」「支援者だから、家族の気持ちを理解できる」そんなことは簡単にはできない。その背景にあるもの、本質的なニーズの汲み取り、ニーズに合わせた支援者としての適切な対応。そういったことが大事になる。

これら相手に寄り添う思いを持ち続けることに対して、邪魔をするのが「知識」と「経験」である。経験が長ければ長い支援者程、見えていたものを見えなくする場面も出てくる。私は、経験が長くなるにつれて、そこにこれまでとは違う利用者やその家族との間に、今まで感じたことのない「壁」を感じるようになった。そのことは、また後述したいと思うが、長くなるにつれて、利用者やその家族からの私自身に対する「見られ方」「立場」が、これまでとは違ってきたように思えるのだ。その結果、妙に距離というか、オブラートのような膜を感じるようになり、本質的に見えなくなるものがでてくるような気がして、私自身が返って不安になることがある。相手との適切な距離を掴めないことが増えている感じがするのだ。近づこうとしても近づけなかったり、逆に近すぎることもある。まさか自分が「地位」「経験」に苦しめられる日が来るとは思わなかった。これらは、私自身のセンサーすら鈍くしてしまっていた。

本当に恐るべきは、経験からくる妙な「自信」と知識によって「理解したふり」でいることかもしれない。




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