なんとなく

「ピピピピピピ」
 ワンルームの部屋に目覚ましが鳴り響く。希子は、気だるそうに目覚ましを止めた。隣を見ても、明広はいなかった。
 昨日、大学時代の友達と飲みに出かけた明広は1:00をまわっても帰ってこなかった。
 別に待ってたわけではない。ただ、家に帰ってくるのが遅くなりそこからお風呂に入り、ご飯を食べ、寝ようと時計を見たのが1:00だっただけだ。いつもはスキンケア道具とパジャマを一度に脱衣所に運ぶのにバラバラに運んでみたり、食べ終わった食器をゆっくり片付けてみたりしたのは別に明広を待っていたわけではない。
「ただいま。ごめんね。」とあの人の声がすることを想像なんてしていなかったし、朝になったら隣に大好きなあの人がいるんじゃないかと思ったりなんか、別にしていない。
 もう何回目だろうか。明広が飲みに出かけたまま帰ってこなかったのは。「なんで帰ってきてくれなかったの。」と悲しむのももう、お手のものだ。この狭いシングルベッドの上で寂しく小さな寝返りを打つのにも慣れてきてしまった。
 抱き合って寝ていた日々がいつしか窮屈で息苦しい夜に変わり、ついにはひとりでベッドを使うのが普通になってしまっていた。
 希子は、洗面所に向かった。
「ああ、歯磨き粉ないんだった。」
そう思いながら歯ブラシにいつもの癖で、歯磨き粉を出そうとすると、「ブバァッ」と音を立てて歯磨き粉がほんの少しだけ出た。最後の悪あがきだったようだ。まるで今日の天気みたいだ。
 お盆を過ぎ、ここ最近過ごしやすい天気が続いていた。しかし、今日はどうしたものかあの蒸し暑さが戻ってきた。もうないと思っていたのにまだあるという不意打ち。歯磨き粉は嬉しいけれど、暑さはまったく嬉しくない。今日はそんな日、8月31日。夏、最後の日だ。
 とはいっても、希子はもう社会人。とっくに少ない夏休みを終え、忙しく働いていたし、夏休みの最終日が8月31日なんてとっくの昔の話。近所の小学生は2日前ほどからランドセルをかづきはじめていた。

 朝ご飯を済ませ、メイクもリップだけという時、鍵が開く音がした。
「ただいま。」
帰ってきたのだ、明広が。
 「おかえり。もう心配したんだよ、連絡ぐらいしてっていつも言ってるじゃん。」
「わりぃ、わりぃ。盛り上がっちゃってな。」
 明広は来るなり時計を外し、風呂場に向かっていった。これからの会社に備え、シャワーを浴びるようだ。
 朝のうちに洗濯機を回しておきたかった希子は、パジャマを脱ぎ、脱衣所に向かった。
 明広の着ていたものも一緒に洗おうと手に取ると、ふわっと甘い果物のような匂いがした。
 お酒の匂いかなと思ったが違う。明らかに香水のような甘ったるい匂いがする。
 希子はちくちくと重い不安が、自分の底から湧いてくるのを感じながら洗濯機を回していると、明広が浴室から出てきた。
 「あ、ありがとう。今日暑いもんな。洗濯物がよく乾きそうだよ。もう、朝だっていうのにシャツがベチャベチャになっちゃってさ。代謝良いのも考えものだよな。」
 「うん。そうだね。ところでさあ、昨日っていつものメンバー?」
 希子がたまらず聞いてしまう。
 「うん…。そうだけど…、林と一樹と野口だよ?…なんで?」
 「ううん。なんとなく気になって。」
 洗濯機の蓋を閉めて、脱衣所を後にする。鏡の前でリップを塗る。今日は、久しぶりに深みのある赤色のリップにした。
 これだけ一緒にいるんだからわかる。明広は嘘をついている。明広は、隠したいことがあるとき、右手の中指で頭頂部をかく癖があった。さっきも、右手の中指は頭頂部で、もぞもぞと動いていた。
 前まではそんな正直で純粋な明広が好きだった。だが、今はそんな明広が憎く感じてしまった。
 「まだ決まったわけではないじゃない。」
そう思いながらも、少なくとも私に隠したいことがあるという事実が希子の中でずしずしと重みを増し、針のように心を刺す。
 服を着替えて、髪をセットし、ドライヤーをしている明広に「いってくるね。」と声をかけ、家を出た。空には太陽がじりじりと猛威を奮っていた。
 明広の言う通りだ。朝だというのに、少し歩いただけでシャツがベチャベチャになってしまった。


 17:00。ようやく、今日の仕事が終わった。希子は会社の近くの花屋さんに寄って帰ろうと考えていた。そして、その花屋の隣に新しくできたパン屋さんでベーグルでも買って帰ろう。そう、考えていた。
「ピコン」
 スマホを見ると、明広からLINEがきていた。

「今どこ?仕事終わったから一緒に帰らない?」

 少し悩んだ希子だったが、すぐに「まだ会社ー。うん!一緒に帰ろう!明広の会社の前の公園で待ち合せしよ」と返した。

 公園に行くと、明広がベンチに座って待っていた。長袖のYシャツを捲り上げ、顔から滴り落ちている汗をハンカチで拭いていた。その腕は血管が浮き出ており、筋肉質であった。また、汗が滴り落ちているその横顔は輪郭がくっきりしていた。きっと明広の鼻で滑り台をしたら楽しいだろうな。そんなことを考える希子は明広がたまらなく愛おしかった。
 希子が声をかけると、明広は顔を上げ、「遅かったね。」と言った。
 「なんか食べて帰ろうよ。なに食べたい?」
少し考えてから希子は、「餃子!」と答えた。
 でも、明広が「中華以外で」と言ったのでけっきょく、明広が提案したイタリアンになった。
 「その前にちょっと本屋行っていい?ほら、ベンガルズ、今日フラゲ日なんだよね。」
そう言って明広は希子の手を握った。
 ベンガルズとは、明広が好きなバスケ漫画だ。漫画をあまり読まない希子だが、明広が好きなのならと、少し読んでみたが、あまりよく分からなかった。でも、主人公のライバルの鉄人が無類のパン好きで私と同じだと、そこだけはなんとか共感できた。そこから主人公のライバル高校である中町高校を応援していた。
 近くの本屋へ行くと、明広はレジに向かった。
 手持ち無沙汰になってしまった希子は、雑誌のコーナーへ向かった。
 目についたのは、「東京パン屋新店特集」という雑誌であった。
 もしかしたら、今日行こうと思っていたパン屋さんも載っているんじゃないかとページをめくる。思った通りだ。あのお店は載っていた。
 普段、インスタで「ここに行きたい」と明広に言うと難しそうな顔をされてしまうが、本に載っていると聞いたら少しは興味を持ってくれるのではないだろうか。そんな淡い期待をもちながら、レジに行くと、そこにもう明広はいなかった。かわりに、自動ドア前でにこやかに女性と話す明広がいた。

 その明広はなんとなく、近寄り難かった。なんとなく、行くのがためらわれた。なんとなく、声をかけては駄目な気がした。その明広を希子は知らないような気がした。
 もたもたしていると、女性が笑顔で「また。」と明広に手を振りながら会釈をし、明広と別れた。
 希子は明広の方に向かった。女性は、こっちに向かってくる。そして、すれ違った。
 がんと頭を打ったような気がした。喉の奥に何かを詰め込んだような感覚。あの匂い、あの匂いがしたのだ。
 今日、明広の服から匂ったあの甘ったるい果物のような匂いが。
 思わず振り返ると、彼女は漫画コーナーへ歩いて行った。

 その後、希子は気づいたら本屋を出て、イタリアン料理を食べ終わり、電車に乗り、家の近くの道路を明広と歩いていた。
 夜になっても暑さはおさまっていなかった。二人の汗ばんだ二つの手が繋がっていた。
 「そういえば、来週の土日、アイツらと熱海旅行に行くことになってさ。一樹がそこしか休み取れないらしくって。急だけど、ごめんね。」
来週の土日は、一緒に買い物に行こうと言っていたのに。希子はそう言おうとしてやめた。
 「わかったよ。仕方ないよね。楽しんできてね。」
前まではこんなんじゃなかった。明広は私との約束を楽しみにしてくれていた。ましてや、希子との予定をキャンセルし、他の人と出掛けたりなんてしなかった。だけど、今は…。
「ねえ、のりちゃん。いつも、ありがとうね。ふふふ、なんか、言いたくなっちゃった。なんとなく。」
明広は、正直で純粋だ。だから、こうやって思ったことをすぐに口にしてくれる。でも今は、私との約束をキャンセルしたことのごまかしとしか、希子は思えなかった。
「のりちゃん、好きだよ。」
希子は何も言えなかった。正確に、具体的に言うと、「私も好きだよ。」と言えなかった。
 好きって言っちゃいけない気がした、なんとなく。そんな気がしたのはきっと気のせいではないと、希子は思った。
 今、私の目の前にいるのは本当の明広じゃないような、そんな気が希子はしていたのだった。なんとなく。
 希子は結局、何も言わなかった。曖昧なまま、ただ時間だけが流れていった。
 気づくと繋いでいた二人の手はもっと汗ばんできていて、離れることが難しくなっていた。それは、まるで茹っているようだった。これは、きっと暑さのせいではない。希子はそう感じていた。
 希子は目眩がしてきた。これは、きっと君のせいだ。希子はそう思った。
 今日は、8月31日。夏の最後の日だ。そう、このじめじめとした、夏の、最後の日だ。

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