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東京都同情塔

東京都同情塔

言語は構造物である

ウィトゲンシュタインは、関係性の中で言葉の意味は成立するという「言語ゲーム」という概念を見出した

「関係」が成り立たなくなったとしたら、言葉の意味はどうなるだろう

「誰も住めない巨大な構造物」を作り上げ、そこに住まう人だけを招き入れ、そこに住めないひとは、「同じ世界」の住人ではない、ということになるのだろうか

日本人は「よくわからないものを入れておける、便利なカタカナ」を用意することで、堅牢な塔ではなく、簡便な平家を建てることで「コスト」問題も無事回避しているようだが、よりコストをかけて堅牢な塔を建てる人々もいる

人に対する責任を放棄すると同時に、その「責任を放棄した」という7文字を補完するため、忘れるためな、人々は堅牢な塔をつくりあげる

社会が変わらないかどうかはわからない

ただ、その責任を放棄するため、「変わらないのは自分のせいではない」ことを立証するための塔を建築する努力を、人々は厭わない

人々が交れなくなったのは、言語が分たれているからではないのだ

「バベルの塔」は、「自己検閲から逃れるために人がそれぞれに建てた創造物」

正しさの「基底」を、論理ではなく、感覚におかないか?

論理が必要ない、というわけではない

本来、建築の美しさは、論理に積み上げられた構造、その安心、その中で「人と人が交わること」にあったはずではないか

知らない方がいいという「合理的無知」と、「知らないとは言えない」という自己検閲の魔合成の産物である「東京都同情塔」

同じく堅牢な言語がある

「法律」

法律というのは、しかるべき人間が扱わない限りは「空文」に等しい

弁護士は、その「堅牢な言語」を用いて、人が犯罪者となることを防ぐ

世の中に「犯罪者」を生み出さないために堅牢な言語体系である法律を駆使する弁護士と対称的に、自分の「みたくない」を原資としてあらゆる「カテゴライズ」のために生まれた言葉

作中、「A子」は、『私を犯罪者にしたのは、私だけなんですか?』と訴える

「多様性」という空虚な空間の中にいくつもそびえ立つ「平家」や「堅牢な塔」を見つめながら、ふと、その訴えは、いったい誰に「きかれる」のだろうと思う

人を分つのではなく、人と人をつなぐためにどのような言葉を使えばいいのかということを

ドメスティックな内容まで、すべて「ソーシャル」に開かれてしまっている境界のない社会で、人は、人を区別したくって仕方がない

私たちは語り合うことができるのだろうか
他者の声を聞くことができるのだろうか

ともに住まうには、どうすればいいのか

この「言葉」自体も、実は私が作り出した虚構の塔なのかもしれない

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