昔は姫はじめの意味はこんなだった
たまたま安斎随筆を読んでいた時、姫はじめに関する記事を見つけた。
姫はじめと言えば新年最初の男女の営みを指す言葉だとばかり思っていたが、その随筆では異なる見解が述べられている。
”正親町院従一位大納言公通卿の雅筵酔狂集に姫始めのこころを”
”四方の野べ広袖と見ゆるはる霞ゆたかに立つや棹姫はじめ”
”自註に云はく姫始めとは女の衣類を縫ひ始むるなり。棹姫も霞の袖をぬひ初むるかと云ふなり。”
これは気になる。
そこで早速『雅筵酔狂集』という古い本に目を通した。
目的の文章を探していると、それらしき部分が目に留まった。
原文はこのように草書や変体仮名が用いられていて、非常に読みにくい。
左から三行目の下段に『姫始とは女の衣類を縫初る也。棹姫も霞の袖をぬひそむるかといふ意なり』
と、書かれている。
現在の姫始めとは違い、春に女が衣類を縫い始めることを姫始めと言ったらしい。
棹姫(さおひめ)というのは春の女神で、佐保姫とも書かれる。
昔の日本人は山に棚引く霞を見て、それがまるで衣類の袖のようだと思ったらしい。
万葉集には
”佐保山にたなびく霞見るごとに妹を思ひ出で泣かぬ日はなし”
という歌がある。
この歌は大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだもの。妹とは家持の妻のことで、sisterの意味ではなくloverの意味。
家持は妻を亡くし悲嘆に暮れこのような歌を詠んだらしい。
棚引く霞を衣類の袖に見立てているのだろう。この歌を詠んだ亡くした妻を思い出し、悲しみに暮れる心情が歌われている。
家持の妻は佐保山に埋葬されたという。その山にまるで女の衣類の袖のような霞がたなびいている。それを見て家持は亡き妻を思って泣いたようだ。
ともかく、昔の日本人は春の女神である棹姫にあやかって、年始に衣類を縫い始めることを姫はじめと言ったらしい。
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