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ソフトに依存するとはどういうことなのか

 このツイートがTLに流れてきたとき、ふと色んなことに当てはまるなと思った。引用したツイートは自分の画風をAIに読み込ませて学習させるという文脈のもの。AIに学習させるうちに、自分の画風を考えるときAIがどうだったかを気にしてしまい、AIの画風に合わせて調整してしまうという主旨のツイートである。

 この現象は連珠に当てはめることも出来るだろう。ソフトを使って研究しているうちに、実戦の場で「ソフトだったらこう打つ」や「ソフトだったら詰めそう」など「ソフトだったら◯◯」と考えてしまい、判断の主体が自分ではなくソフトになっている。「依存すると調整に寄る」を「判断の主体が自分じゃなくなる」と言い換えれるなら、「ソフトだったら◯◯」と考えてしまう時点で、その人はソフトに依存してしまっているのだろう。

 また、上記のツイートでは調整に寄った結果、セレンディピティ(=偶然の産物)が得にくくなるとも言っている。このことに関しても、連珠で近しいことが言えそうだ。

 ソフト推奨手・最善手を意識するあまり、次善や難しい必敗に目がいかない。ソフトに依存している人は、実戦で定石を外された途端に動揺してしまうだろう。なぜなら判断の主体がソフトなので、ソフトに梯子を外され急に自分で考えないといけなくなるからだ。

 自分は長いことソフトを使って連珠に向き合ってきたが、その中でこういった失敗は数多くしてきた。振り返ると、1年前の京都クラス別でまったく勝てなかったのは、ソフトに依存していたからだと思う。また、ソフトに依存してしまうあまり、何を打っても不安が消えなかった。「これで合ってるのか」「ソフトで確認したい」といった思いの中で連珠を打っていた。

 そういった失敗があったからこそ、ソフトとの向き合い方をはっきりと変えた。例えば、研究するにしても自分の中で考えられる選択肢を挙げてから、その変化を調べるなど。そのおかげか今年のクラス別では、わりと気楽に打てたように思う。なにより連珠をしてて楽しめるようになった。もしソフトとの向き合い方で悩んでいる人がいるなら、判断の主体をソフトではなく自分に変えてみてほしい。少しは心が楽になるだろう。

 ということをソフトで研究しながらふと思った。


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