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北の果ての鉱山開発(朝鮮人労働者)

目次

  1. 朝鮮人労働者が鉱山に

  2. 土木仕事の一面

  3. パンケにも朝鮮人が

  4. 鉱山と分かれる日

朝鮮人労働者が鉱山に

 当時は朝鮮人とは言わずに、半島人と言った。この記録はこの呼び名で進める。
 胸の詰まる、勤報隊の話を書いたが、北海道の北の果てにも、やがて春が来る。北海道での春の訪れは、本当に待ち遠しいのだ。
 堅く大地を閉ざしていた氷雪も、段々浮き上ったような形を示しだす。
 南の斜面から黒い台地が顔を出し始めると、雪も日一日と黒ずむ。そして
消えてゆく。

 昭和19年5月、落合沢坑口の上の山に、立て坑開削の工事が始まった。

 正確に言うと立て坑は、すでに、落合抗から掘り上る工事が行われていて、我々の目に写るのは、山の上に作る巻き上げ機室、立て坑のやぐらなどの基礎工事だった。

 山を削って平地を作る。土砂の下の岩盤は火薬で爆破するのだが、岩盤の飛散を防ぐために、古タタミを用いた。物資の無い時に、どこから見つけ出したのか、そうした気配りもあったのだが、それでも岩石は飛散した。

 事務所の柾葺きの屋根にパラパラと、小気味よい音を立てた。
 その音を聞きながら、事務係の娘さん達は花火でも楽しむように、明るい声を上げた。

 立て坑ができる。鉱山が本格的に開かれてゆく喜びが、人々の胸に生きてきていた。

 パンケは鉱石を出す鉱山の源であるが、その開発と共に、峠を隔てたペンケの沢にも本格的な選鉱場をはじめとする坑外施設の建設が始まった。

 付属の設備として、機械類を整備する工場、木工場、電気工場、そして事務所の他に、住宅、寮、購買会、浴室というように、多くの人が生活するための設備が必要であった。

 昭和19年、鉱山は半島人労働者の受け入れを決めた。戦争は若い人を鉱山からも容赦なく引き抜いており、建設をすすめる為には、そうせざるを得なかったからである。

 少しばかりの平地を、更に地ならしして、バラックが建てられた。通路を挟んで、両側に寝起きできる代表的な土方飯場型の建物であったが、昼夜兼行の工事であった。
 間もなく200人ほどの人達が到着した。どのように朝鮮で人集めが行われ、どのように輸送されたかは山奥にいた私には明確ではないが、話によると、相当の強権を持って集められたようで、そのことが、労務者の逃亡という事に現れていたように思う。

 ほとんど鉱山を知らず、技能らしきものも持っていない事で、選鉱場の基礎工事に向けられた。
 選鉱場はペンケの沢の右岸が幅広で、山の斜面が膨らんでいる場所に作られることになっていた。その斜面に階段状の基礎を作り、その上に建屋を建て、機械類を設置する。
 まず、ひな壇に似た基礎が必要であった。

 ノミを石刀というハンマーで岩盤に打ち込むのだが、彼らはいつか上手にノミを操り、発破孔を掘れるようになっていった。

 一日の作業は夕方に終わるが、発破作業は夕暮れと共に行れる。山の斜面に土煙が走るが、その頃彼らは宿舎の湯船に浸かっていた。
 よって、鉱山としては彼らを虐待する事は、考えられなかった。

 それなのに何故逃亡が多発したのか、それは実際にはありもしない上手な話し、「酒と、女と、金がいくらでもある」というような事 、そんな夢のような甘い誘いが、どこからともなく彼らの耳を なぶった ようだ。

 春田組ではないが、ピンをはねる親方衆が、軍事基地の建設などに一人でも多く配下を差し向ける、そうした所はだれでも手に入る場所ではなかったから、同郷の親方衆にとっては安全と言えば安全な斡旋先であったであろうし、反面入った者は抜けられない地獄であった筈だ。

 鉱山の半島寮長は、そうした問題に苦しむのであった。

土木仕事の一面

 パンケの選鉱場は、鉱石に交じって出てくる木片などを取り除いて、適当な大きさに砕くだけのものであったから、送り出される鉱石は余分の岩石を含んでいた。
 従って、余分な輸送費、諸掛りが多くなる。そうした事で、ペンケに作ろうとしている選鉱場は、鉱石を更に小さく砕いて、水と薬品を加え、圧搾空気または、撹拌機を使って泡立たせる。その泡に金属分を捕収するという方法 浮遊選鉱法 というのだが、このような方式を計画していた。

 また、斜面に作るのは、地球の引力を利用し、工程間の輸送動力の節約を計るという当時の常識から、考えられたものであった。

 金属分が捕収された、カスの部分は売れないので、鉱山で始末しなければならない。後年、カスの荒いものは坑内に戻し、掘削後の埋め戻しに使われたが、初期はそのような知識がなく、近くにダムを作って、貯め込むことがどうしても必要であった。すなわち、選鉱場を作る事は、ダムも同じく作るという事であった。

 ペンケでは、そうした工事が進められていたし、半島人の他に多くの請負組配下の荒くれ達も導入されていた。

 当時、土建業業者の元請けは、鉄道工業といった会社で、その下にたくさんの業者が所属し、工事を分担していた。この連中は自分達が請け負った仕事が終れば、次の現場へと移って行くから、昨日までいた連中が、今日は空き家になっているという事も、珍しくはなかった。

 それだけに、争いごとは壮絶を極めた。

 北海道の土木工事は、短い夏の間に一年分稼がなければならない。そのために夜明けと共に働き始め、日の暮れ迄仕事をするのが、北海道の土工であった。また、これで へばって は一流とは認められない。

 飯場に戻って酒となる。そして喧嘩となるのであった。喧嘩と言っても生易しいものではなく、スコップが、つるはしの柄が、振り回され、血が飛ぶ。
 よくしたもので、大した怪我人も見なかったが、それでも白いものを撒いたまま、翌日の作業に掛かっている真っ黒な土工の姿を見たものである。

 鉄道工業の現場責任者は 原 という体の大きな男であった。
 配下の一人が、鉱山会社の半島人労働者を殴った事で、掛け合った事が有るが「少しくらいナゼた事を、とやかく言っては仕事になりませんぜ」とうそぶく男であった。こうした神経でなければ、とても北海道の工事はやれない。私も少し恰好を付け「まあ、頼むぜ」と言うしかなかったのであった。

パンケにも半島人が

 そうしている間に、坑内にも半島人を入れる事になって、150人ほどの一行が到着した。 
 雨の降る峠を越えて、14キロの道のりを歩いてきた人達は、ズブヌレであった。白い民族衣と足指を僅かに引っ掛けた わらじ 様の履物、日の暮れた後にパンケに着いた彼らは、亡霊を思わすような疲れた足取りであった。
 宿舎の土間の食堂にはドラム缶を横にして作った、いくつかのストーブに薪を投げ込んで暖を取らせ、この時ばかりは、飯をふんだんに炊いた。初夏の頃であった。

 二、三日して、坑内を主体として一部は坑外の現場に配属された。イラ草の作業委と地下足袋は、彼らを稼ぎ人らしい姿とした。

 夏の夜、パンケの選鉱場で事故が起きてしまった。二ノ方の係員から急報が有って、職員合宿にいた人達は全員飛び出した。選鉱場のストーブが爆発し、多数の怪我人が出たという。
 駆けつけてみると、選鉱場は真っ暗闇である。カンテラの光をかざしてみると、倒れたままの者、泣き叫ぶ者などが見られた。電線が垂れ下がっていた。
 事務所の机、椅子を片側に寄せて、怪我人を収容したが、応急手当にの間にも、事故を聞いて駆け付けた半島人達が騒ぎ出す。班を作らせて、ムシロを使った担架作りをやらせた。

 結局、町の病院に四、五人送ったのであるが、爆発の原因は、ダイナマイトをストーブに入れた事であった。

 夏でも夜になると寒い。それで鉱石に混じってくる坑木の切端を燃やすのだが、火が付かなかった。それで同じく、鉱石に混じってくる不発のダイナマイトを細くして、火をつけたらしい。
 これが、何かの衝撃で爆発してしまったとの事であった。
 こうした事もする連中であった。死人を出さなかったのは、何よりだった。

 それから間もなくの頃である。日が暮れて暫くたった頃、半島人寮の舎監から、また一人不足だとの報告があった。夕食後逃亡したらしい。
 半島人の班長を連れて、夜の峠を上り出した。途中まで登ったところ、熊笹の向こうで立木を滑り降りる音と、熊笹を振り分ける音がした。

 カンテラの火を大きくして、逃亡者の名を呼んだが返事はない。「先生、帰りましょう」と言う班長の声は、震えていた。

 確かに、人間が木を降りる音にしては大きかった。結局、その夜は引き返したが、翌早朝、その付近で木の幹に付いた生々しい爪痕を見た時、背中に冷水をかけられた思いがした。

 半日以上探し廻って、夕方、ついに逃亡者を見つけ出した。彼は峠を越えないで落合沢を下り、夜中も歩き通しであったようだ。

 地理を知らない彼は、同じ地域を歩き廻って、それを怪しまれて通報されたのであった。どこを目指す当てもなく、熊の出る危険な沢道を無灯火で歩き、そして食べ物を求める言葉も知らぬままに空腹を抱え、発見された時、崩れるように坐りこんだ。

 代用地下足袋ではあったが、昨夜使い始めたばかりのその底には、小さな穴が開いていた。
 追跡行の珍しくもない一件であるが、貴重な人命であった。

鉱山と別れる日

 昭和19年も秋になったある日、ペンケの事務所から電話が入った。
 受話器を取った私は、即座に「入隊通知か」と聞いた。
 その通りであった。予感が的中した、これほど見事な経験は私の人生で珍しい。
 個人の入隊は鉱山にとって大した出来事ではないのだが、予感の的中と言う事で、当時の若者の心理(投稿者注:ショック)を知ってもらいたいと思う。

 前年、この鉱山に来た時は、開発も初期であったが、短い期間で様子は大きく変わった。もう自分の役割は終わったという解放感に浸っていた。

 それから鉱山を出発するまで、連日のよう送行会が開かれ、酒浸りの日が続いたが、二つの話を書く事とする。

 一つは、半島人による送行会のこと。
 手稲から転勤してきていた、古い集団移入の半島人が発起人となって、新人達にも呼び掛けて、驚くほど多くの人達が集まってくれたのだが、キムチと大きな鍋の煮物が、ご馳走であった。
 どこから買ってきたのか、当時は貴重だった鳥が、足を除いてほぼ全身刻み込まれていた。いく分気持ち悪くもあったが、彼らの好意をヒシヒシと感じて、呑み、かつ食いながら、夜の更けるのを忘れるほど盛り上がった。

 その二 
 何度も書いてしまうが、また熊の事でなのである。

 出発の日、また有志の好意でドブロクを酌み交わしたあと、数人がペンケ迄送るということで、峠を越すことになるのだが、頂上を超えて少し下った所、そこは、それまでも熊の通り道と言われていた場所なのだが、吾々とは反対に登ってくる人達が、はるか向こうで盛んに身振り、手振りをしている。
 酒の入った吾々は、なんとも思わないで、その人達の待っている所に行きついた。話を聞くと驚いたことに、大きな熊が、吾々の通ったあと、道を横切ったという。
 登ってきた人達も危険なので、全員峠を下りペンケに向かった。 
 とんだ送行会になるところであった。

 昭和19年と言う年は、春先から涼しい年であったから、水田は秋になっても青々としていた。
 軽便軌道に便乗して、そうした水田に夕日がさしているのを眺めながら、未知の軍隊に思いをはせていた。

 もう鉱山とは縁が切れたと思いながらも、何とも言えぬ寂しさを感じながら、下川駅に向かうのであった。


北の果て鉱山開発終戦直後1に続く



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