【中平卓馬】絕佳的風景 きわめてよいふうけいと、EF100mm MACRO 1:2.8
ちょうど一ヶ月ほど前の凄く寒い1月の夜、僕は物撮りの仕事中に、カメラを落として壊してしまった。
なんという事か、それは、やりたくない仕事という事と、そのスタジオの寒さに嫌気がさしてた事、それと納期に追われて、僕の集中力が尽きた事などの条件が幾重に重なり、それは、アルカスイスの雲台に挟み込んでいたはずだったカメラが床に落ちた。
カメラを落としたことのある人ならわかってもらえるはずだが、その精神的ダメージの大きさは計り知れず、そこは時間が止まったかのように、この世界で、一番マヌケなのは自分だと言われたように、ダメージが襲いかかる。カメラやレンズが高価だからという問題ではなく(本当はそれもある)、なんというか、自分の体の一部を自分で破壊したかのような、それは大変なショックである。
そんなこんなで、次の日、行きつけのカメラ屋さんに出向き、事情を話し、カメラを修理に出した。カメラを落としたショックは、大体、一週間ほど続き、徐々に薄れてはいく。
僕はしっかりと覚えている。カメラ生活40年の間、落としたのは今回を入れて4度目。あと、いいとこ写真を撮れるのも20年だろう。もう2度と落とすまいと心に誓う。
一ヶ月ほど、そうこうしてたら、昨日、カメラ屋さんから修理完了の連絡があった。幸い、いくつかの部品を交換して、カメラは僕の元に帰ってきた。なんだか、以前より綺麗になったような感じなのは気のせいか。
引き取りの次いでに、カメラ屋の店長ととりとめのない話をしながら、店の中古レンズの並んだ陳列棚に目をやると、そこはCanonの棚であり、赤巻きのL玉が堂々と並んでいた。
まぁ、一通り業務に使うレンズは揃ってるのでそんなに興味はなかったのだが、その棚の端っこに無印の、それはみるからにやれた安っぽい外観の50mm f1.4が2本並んでおり、程度のいい方は2.5万円、悪い方は、カビありで1.9万円。20年も前に作られたレンズだか、僕はそのチープな並単がとても好きだ。
と、そのちょい奥になんだか長めの、そう、50mmを引っ張ったような、不恰好なレンズがあった。どこかで見たような、、ガラス越しによく目を凝らして見れば、それは100mm macro f2.8だった。それも金巻きでもない頃の最初期型の30年もの。程度は良好そうでで、カビ無しと書かれていた。おまけに値段が1.1万円。
なぜだか急にそのレンズに引き寄せられた僕は、なぜこのレンズに引かれるのか、全然思い出せぬまま、店長に「これ下さい」と、反射的に言っていた。そしたら、店長は1万円でいいという。
このところ、買い物はほぼネットのみ。このように店頭で偶然の出会いっぽく中古レンズに巡り合い、衝動買いし、はしたを負けてもらい、なんていう買い物は久しぶりである。
なんか凄く嬉しく、良い買い物をした。
僕は、早々に買ったレンズを修理から上がってきたカメラに取り付け、ファインダーを覗く。それは、まぎれもない100mmのあの懐かしい世界が僕の目に飛び込んできた。
それは、50mmでも、85mmでもない、100mmの世界。なんだか、この頃、使うレンズの画角に違和感を覚え、なんかしっくりこない日々を過ごしていた矢先のことだ。
カメラを構えて、ピントリングを回してみると、それは、古いレンズなはずなのに、なんかねっとり指に絡んでくる。もしやと思い、AFをオフにしてマニュアルでピンを送ってみたら、やはりそうだった。ピントが凄くよく見えるのである。
この感覚は、僕の愛用しているTS-E90mm f / 2.8と同じなのである。不思議な感覚で、まるで昔に戻ったかのように、フォーカスポイントから自由になれるレンズである。嬉しかったなぁ、撮りたい物がファインダーのどの位置にあっても、素早く、見せたいところにピンを置くことができる。
僕は、その時、はっと、思い出した。
そうだ、このレンズ、中平卓馬さんが、晩年、ぼろぼろの旧F-1につけて、横浜周辺を赤い野球帽を後前にかぶり、薄汚れた赤いコーチジャンパーを着て、オンボロのママチャリに乗って、ウロウロスナップをしていたレンズだった。いつか昔、その映像を見た記憶が蘇ってきた。
あーこれだったんだ。
もちろん、厳密には、僕の手にれた100マクロはEFだし、中平さんの100マクロはFDだから、違うといえば違うのだが、それはそれ、そんなことはどうでもいい。
誰が言ったか、焦点距離=年齢説。この所、50mmばかり使っていたのだが、それが、なんかゆるく感じてた矢先の100マクロ。僕は54歳なので、まだまだ、100才にはほど遠いが、それは実年齢ではなく、昨年末からの激務で疲れ果てて、実は体調が100歳なのかもしれない、なんて苦笑いした。
たかが、1万円の中古レンズを買っただけなんだけど、なんで、こんなにテンションが上がり、幸せな気分でいられるのかさっぱり分かんないけど、とにかく気分が良く、さっきから、スタジオの中の目につくものを片っ端から撮っていた。
ファインダーを覗き、マニュアルピントで、見せたいところにピントを置いて、ただただシャッターを切る。我々は、日々、デジタルの進化の恩恵を受け、便利なカメラのAFポイント任せで、なんとなく、それはほぼピンボケというミスから解放されたかのように思われてはいるのだが、果たして、それと引き換えに何か大事な事までも一緒に放棄してしまったのではないだろうか。
ボディ内手振れ補正に、顔認証瞳AF、ミラー自体が過去のものとなり、気がつけば、僕の手元に仕事用のレフ機は一台も無い。日々、現場でその高性能なバーチャルファインダーの液晶を覗いているのだが、レフ機と比べると目の疲労は半端ないのである。
そんなこんなで、疲れた時や、マンネリになった時、激務で何やってるか分かんなくなった時、そんな時は、カメラを落とすまえに、疲れた体にムチくれてでも、中古レンズなどをアサリに行くのが良いのかもしれない。
晩年の中平卓馬は、この100mmの画角に中に、何を見たのか?そんなとりとめのない事に思いをめぐらせた。
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