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欲望と「欲求」はどう違うのか

「まず言えることは衝動性があるかどうかですか。
欲望とは無条件に早く満たしたいものであり、
欲求ならもう少しスピード的に緩やかであるでしょう。
欲望を戒めるにはどうしたらいいのでしょうか。
それを戒めるためのお経を読誦するのもいいでしょう。
そのためには何に何が書かれているのかを知る必要があります。
念動は自分に言い聞かせることで実効化できると思えます。
自分で選択することにはやはり意味があるでしょう。
人がやっているからとするよりも、
自らが決意することで行うことは明らかに意味のあることです。
自分のことは自分で考えてやっていくしかないのです。
当たり前ですけど、仕方ないです。
でも、そうと気づけばすぐやれます。
自分でそうしようとするなら、
何かできることがあります。
そうでないなら、おかしいのです。
自分を甘やかすのもいいですが、
ほどがありますね。
普通のことです。
自分が何をしているか、本当の意味で知ることです。
それで自分が見えてくるなら、
それを自体がしたいのか、そうでもないのか、
よく考えることです。
それができるのは自分しかいないのです。
人のことは関係ありません。
言い訳は惨めです。
言い訳するくらいなら、最初からやらなければいいのです。
大人として、それでは恥ずかしくあるでしょう。
ならば矯正することが意味あるでしょうか。
起きてしまったことは諦めるにしても、
懺悔が必要ですね。
多分そうでしょう。
悪いことをしたのなら、
悪いことをしたと認めないといけないはずです。
まずはそれからです。
それから本当の意味の後悔や反省が起きるでしょう。
として、それは誰のことでしょう。
自分のことでしょうか。
他人の誰かのことでしょうか。
悪くないなら、欲求に任せてやってしまうのもいいですが、
やってしまった後のことを考えるべきです。
当たり前ですね。
それは結果として当然のことが返ってくるはずです。そんなことは具体的に例示できますかね。
キリがないので、そこまでの暇はありません。
考えてみれば分かることなら、
いいのですが、
それでも分からない場合はどうしたらいいのでしょうか?
また自己嫌悪に入り込んでいくでしょう。
罰や屈辱は自分で勝手に与えてはいけません。
当事者以外の目が必要です。
何でもそうなっているはずです。
そうなっているのだから、規則や法律に則り、処理することが推奨されます。
というか、義務です。
正常な精神を保ちたいなら、
それ相応の覚悟や行動が必要です。
狂気を好むなら仕方ないですが、
その因果は私の知ることではありません。」

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