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「私」が懼れるものは何か

「恐らく自信を喪失するのが嫌なのであろう。
自身を喪失することは考えられない。
しかし、あり得ることかもしれない。
それはどんな意味か?
自分が自分でなくなるのか?
それはどんな意味だ?
どんな場合にそれが起こりうるのか?
普通はそうなる訳がない。
人と同じ道を辿りたいのではない。
しかし、違う道を行きたいのでもない。
常人としての葛藤がある。
普通のことのはずだ。
普通そうなるはずだ。
それが普通のはずだ。
少なくとも私はそう思う。
しかし、そうではないと思う人間がきっといるだろう。
しかし、それはどうでもいい。
それは仕方ないことだ。
可能性があるのなら、実際そうではないか?
違うとしてもどうでもいい。
それは私には関係のないことだから。
しかし、哀れである。
しかし、関係ない。
向こう側のことだ。
意味はない。
意味はあっても、意味がない。
私は知らないことだ。
これが私の書きたいことだろうか?
いや、しかし、分からない。
つまり、分からないのだ。
何を分からないのだろうか?
それは対象が分からないのだ。
つまり、そう言うことである。
分かる場合と分からない場合がある。
この場合は後者である。
選択の余地はない。
余計ではある。
しかし、ない。
それは道理だからである。
筋道としてそうなってよいからである。
つまり、そうなって良いのなら、それで良くはある。
それはどの程度の期間か?
それは知らない。
分かるが、知らない。
知らないから、分からないはずである。
実際分からない。
しかし、知れる。
それは知れているからである。
長持ちするものは長持ちする。
しないものはしない。
それが道理だからである。
だから、そうなっているはずである。
これで因果ではないか?
道徳律とはそんなものではないか?
そうでないなら、私はそれを知らない。
知らないかもしれない。
しかし、何がだろうか?
何が何を知らないのか?
それを知る必要はあるのか?
ないなら、無駄ではないか?
無駄ならいらないではないか?
無駄でないならどうなるのか?
無駄でないなら、捨ててはダメではないか?
しかし、捨ててしまおう。
もう要らないのだ。
つまり、それは要らない。
しかし、必要性はあったかもしれない。
つまり、あったかもしれないのだ。
つまり、可能性としてあり得てよかった訳である。
しかし、可能性としてそれでなくても良かった訳である。
だから、それでないことがよりよかったかもしれない。
しかし、それはどうでもいいことである。
過ぎたものはどうしようもない。
もう捨てていけばいい。
それでいい。」

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