見出し画像

自分が「ある」のは何故か

「自分があるのは自分が存在するからに他なりません。
自分がない人間なんているでしょうか?
存在していないのでしょうか?
動物ですら自分を認識しています。
人間である私が私を認識しない理由はありません。
私は存在する。
そこに何らかの理由はあります。
でも分かろうとしても分かり得ないかも知れません。
無私とは私があるからこその語です。
いや、でも私は存在しなくてもいいかも知れない。
しかし、そうなると存在しないものがこれを書いている。
それはあり得ない。
よって私は存在している。
つまり、できる限り私をなくそうとして、無私の姿勢に思い至ったのだ。
しかし、そんな私はこの世界の役に立てているだろうか?
でも、そんな問い自体が無意味な気もする。
私は別にこの世界の役に立ちたい訳でもない。
ただ何となくあるよりも役に立ったと言われたいだけであり、
特に意味がない。
私はこの世界の役に立ってみたい。
しかし、世界がそれを許さないのかも知れない。
自由とはなんだろうか?
私は不自由を感じているのだろうか。
不自由の中にも自由があり、その広さはよく分からない程に広い。
自分の立ち位置など見失ってしまいそうだ。
と言うと、自分はいなくなる方向に向いているのかも知れない。
でも、自分はなくなりはしない。
こうして続きを綴っている。
しかし、無私の感覚が強くなってきた。
無我の境地だろうか?
考えるより先に手が動く、そして、文章を綴っている。
そんな私は何のために存在しているのだろうか?
分からない。
分かる必要もない。
いや、でも分かりたい。
世界に役立ちたいのが動機だと思える。
そうでないなら、一体何なのか。
しかし、私にその資格はあるだろうか?
ない気もする。
人に影響を与えようなんておこがましいにも程はないか。
そうではあると思える。
自分は一体何をしたいのか?
すべきか否かならばとりあえずすべきだろう。
この程度のことは問題ない。
こんなことを迷惑がる人はいないはずだ。
許されることと許されないことの線引きはどこにあるのか?
しかし、この程度のことでそこまで考えるのはやりすぎな気がする。
迷うまでもない。
この程度の独白など、どこにでもある。
珍しくもない。
これと言って特別なところなんてあるだろうか?
無論ない。
無私である。
意味はなくてもいい。
続くのだから、続けていく。
それだけでいい。
つまりそれだけだ。
こんなことを続けて現実は過ぎていく。
それが宿命であり、普通であり、当然のことだ。
だから、珍しくもない。
それが普通だ。」


もしよければサポートお願いします。 頂きましたサポートはクリエイターとしての活動費用に用立てます。さらにクオリティの高い記事を書けるようサポートよろしくお願い致します。