成果主義は経営者の逃げ

まず最初にはっきり理解して欲しいんだけど、今や中途半端な成果主義はあらゆる職場に入り込んでいる。先生や公務員ですら多少は成果主義的評価を受けて給料が隣の人と少し違う。
僕は今はびこっている成果主義はダメな成果主義だと思っている。そして私はこのダメな成果主義こそがこの20年間給料が全く上がらない、そしてみんなが仕事に情熱を注げなくなった日本の最大の原因だと思っている。

成果主義がもりあがってるから、昔書いた「選択と集中」に関する記事を焼き直してみた。

成果主義はうまくいっていない

90年代前半に、日本の会社の主力事業が軒並み苦戦に陥った。そこで、会社の働いていない人の給料を減らして経営状況を改善する必要があった。90年代後半になると、「成果主義」という言葉が流行しだす。どこの会社も、役人も、主力も含めた全ての人の成果を、会社の利益に繋がっているかという観点から評価して、本当に良い仕事をしている人にちゃんと給料を多めに払おうというわけだ。

実際の成果主義はどうだったろうか。うまくいっているものもあるけど、うまく行っていないものの方が多い。その理由は成果主義が経営者の言い訳として使われているためではないかと思っている。

「成果主義」とは何か

成果主義のイメージは、怠けているのにそれなりの給料をもらっている、会社に利益を与えていない人の給料を大胆に減らし、利益をもたらす人に報酬としてしっかり報いる、というものだろう。そのため、給料が減った人は頑張っていない人、ここで頑張ればきっと将来はもっと儲かってみんなが幸せになるはずだ、というイメージを持たれているのではないか。

しかし実際は全く違う。実態はどうなったかというと、ほとんどの人が給料が減り、というか正確には上がらなくなり、僅かな人数の給料が上がった。これが成果主義の実態だった。なぜなら、成果主義はリストラ(良い意味も含む)の一環で始まったからだ。リストラにはいろんなパターンがあるが、実際に行われた「成果主義」には次のような特徴がある。

(1)「働かない人」の首は切れない。「普通の人」と比べてもそんなに給料を減らせない。
(2)「優秀な人」に支払うお金を賄うために、「働かない人」だけでなく「普通の人」からもカネを集める。「普通の人」の給料が下がる。
(3)優秀かどうかを評価するための仕事が増える。なんならその定義が良くないと、みんなでダメな仕事をし出す。
(4)「将来儲かる仕事」「儲かる仕事をサポートする仕事」が評価されにくい。机の掃除くらいならともかく、優秀な人にアイデアを与える人、完璧なファイルやデータを準備する人などの仕事の評価が難しい。

これはみんなが上司になることを目指す日本型経営にとても合っていた。会社の調子が悪いからみんなが苦労する。そして良い仕事をしさえすれば給料は上がる。誰も責任を取る必要がない。しかも誰もが「優秀な人」になることができる。それが「成果主義」だった。


「成果主義」の特徴と問題点

成果主義の良いところは、「儲かる仕事」がはっきりしていた時には、正しい努力をすればするほど儲かる、win-winの関係が作れることにある。
一方で問題もあり、最大の問題は「働かない人」の首を切れない以上、「働かない人」「見えない良い働きをしている人」「普通の人」の全てからリソースを少しずつ取り上げることだ。

いまやりかけのあらゆる事業から余裕を取り上げると、「働かない人」だけでなく、「見えない良い働きをしている人」「普通の人」にも余裕がなくなる。その結果、見えない良い働きをしている人や普通の人が伸びなくなったり、やる気を無くしたり、転職したりする。

あともう一つ副次的な問題として、「良い仕事に見える仕事」が評価されるため、みんなでそういう仕事をやり出す。典型的なのが新プロジェクトの立ち上げだ。経理から営業まで、既存の維持を誰もやりたがらず、みんながみんな新しい部署を立ち上げようとする。会社だけでは無い。今では公務員も政治家もみんなそうだ。マイナンバーカードを見よ。既にパスポートと健康保険証と住基ネットと年金、医者なら医者のID、大学の先生は研究者ID、あらゆるID番号があるが、統一しようとする人はほとんどいない。「儲かる仕事」で無いと役人すら動かない時代だ。

これが今の日本社会だ。

みんなが遅くまで働いてる。上司も部下の面倒を見ながら細かい書類を作成し、会議も出るわ営業もするわ、もうなんでもやる。でも、昔なら陰で掃除をしていた人、スターの人の仕事を支えていた人、そういう人たちが評価されない仕事はやらない。その結果、部署でエースと呼ばれる人たちが、会社で言えばウォークマンやiPhoneの発明級、研究者で言えばノーベル賞級の仕事をすべき人が、掃除もコピーもなんでも自分でやらないといけなくなって本当に大切な仕事に集中できない。なんなら新たに「評価する仕事」に忙殺される。これは、「成果主義」という危険なイデオロギーが原因なのだ。

結局の所、日本型の成果主義はは、みんなからちょっとずつ給料を削って一部の人にドカン、というやり方だ。これはダメなんだ。

それではどうすればよかったのだろう。


「選択と集中」の成功例と失敗例を並べてみよう。

(https://limo.media/articles/-/6814 より)

この文章は「選択と集中」の弊害として書いたものをそのまま「成果主義」に書き換えているだけだ。「選択と集中」についても全く同じ事が起こったのだ。
ここで注意したいのは、「ダメな成果主義」もあれば「上手くいく成果主義」もある、ということだ。全く同じように「ダメな選択と集中」もあれば「成功した選択と集中」もある。改めて「ダメな成果主義」「上手くいく成果主義」の例を探すのが面倒なので、「ダメな選択と集中」と「成功した選択と集中」の例を改めてみてみよう。

成功例①:GE
1990年代のGE社は多角化戦略によって企業規模を拡大し続けており、業績は好調ともいえる状態でした。しかし、ドラッガー氏のコンサルティングを受けたウェルチ氏は、全体の約90%の収益を上げていた15の事業のみを選択し、残りの335の不採算事業を切り離してしまうという大胆な経営方針を断行したのです。切り離された事業には、100年以上GEの中核をなしてきた家電部門も含まれており、当時の社内からは大きな反発が起こりました。 それでもジャック・ウェルチ氏は、『世界で1位か2位になれる事業だけに注力する』という基準で選択と集中を断行し、その結果GE社を飛躍的な成長に導くということを見事にやってのけたのです。

成功例②:日立
日立製作所は、バブル崩壊をきっかけに業績が低迷し、2009年のリーマンショックにより過去最大の損失を計上する結果となりました。(中略) 川村氏は・・・情報通信やインフラ事業に特化する方針を選択しました。その結果、不採算事業をダインサイジングし、19社あった上場子会社を11社にまで絞りこむことで、3年後には過去最高額を計上し、経営のV字回復を果たしたのでした。

成功例③:武田薬品
武田薬品工業は、かつて医薬品だけではなく、動物薬事業、ビタミンバルク事業、化成品事業、食品事業、農薬事業、生活環境事業といった多くの事業を抱えていました。経営は好調でしたが、当時の社長、武田國男氏は、体力のあるうちに事業構造の転換を図るため、1995~2000年の中期経営計画で、「医薬品特化」の経営方針を打ち出しました。(中略)売却した事業には、黒字事業も含まれていたため、社内からの反発もありましたが、売却先には、それぞれの分野のリーディングカンパニーを選択し、緩やかな譲渡を実行するなど、従業員に配慮した方法をとることで、医薬品に特化したスリムな企業へと生まれ変わることに成功しました。

失敗例①:シャープ
シャープはさらなる飛躍を目指し、液晶テレビを生産するための大規模な工場を三重県亀山市に建設したのです。 この選択と集中を実施した結果、液晶テレビは『世界の亀山』と評され、シャープの採算向上に大きく貢献することになりました。 しかし、液晶テレビ「アクオス」でいったん国内シェアNo.1の座についたものの、シャープの絶対的首位は長くは続きませんでした。というのも、サムスンなど、外国企業の技術向上により、液晶価格が大幅に下落してしまったからです。 シャープは、亀山工場建設に巨額の設備投資をしていたことが足かせになり、巨額の赤字企業と転落しました。その後シャープは選択と集中によって生じた損失をカバーすることができず、外資企業の傘下となってしまいました。

失敗例②:パナソニック
パナソニックの選択と集中は、プラズマテレビ事業への特化でした。 パナソニック六代目社長は創造と破壊をモットーに、大規模リストラなどを実施。創業者である松下幸之助氏のビジネスモデルを破壊することから始めました。そして六代目社長が選択した創造が、プラズマテレビへの巨額投資だったのです。 この選択と集中は、一時的に膨大な利益をあげることに成功しました。しかし、その後の液晶テレビの台頭で、プラズマテレビの需要が下降。ついには2兆円近い赤字となり、その穴埋めとして内部留保はすべて吐き出し、さらなるリストラを実施せざるを得ない状況に追い込まれる結果となりました。

時代の流れもあるが、成功例の特徴は事業の切り落としがメインであること、そして失敗例の特徴は、巨額投資がメインなことである。
ここから見えてくるのは、単純な構図である。リストラとは、事業を畳むことである。儲からない事業を潰すんだ。万難を排して潰すんだ。それができないなら改革なんて何の意味もない。そして、その空いたリソースを分散するんだ。儲けゼロの新事業に集中投資したらダメだ。

上記の話は成果主義についても成り立つと僕は思っている。「良い仕事をする人にもっと給料だそう」というモチベーションでは、「見えないけど大事な仕事」「将来儲かりそうだけど失敗するかもしれないチャレンジングな仕事」などを誰もやらなくなり、結果として将来の芽を摘むことになるかもしれない。成果主義をやるなら、将来的に役に立たない人を、万難を排して首を切ること、これ以外に成功の未知は無い。そしてみんなで少しずつ儲けよう。それなら目に見えない仕事、チャレンジングな仕事をみんながやるんじゃ無いだろうか。少なくとも選択と集中の成功と失敗はそう言っているように見える。

首を切る人の成果を評価する

失敗した「成果主義」:みんなから少しずつ給料を集めて、評価の高い人に報酬を出す(少しずつ切り取ってドーン型)
やるべきリストラ:今いる人の一部を切り捨て、そこで得たリソースを、まだこれからの人や、失敗しそうだけど良いチャレンジをしている人を含めたあらゆる人に配る(バサッと切ってパッパッ)

選択と集中に成功したすべての企業は、何らかの事業をバサッと切っている。そして失敗した会社は、集中した事業はわかりやすいものの、切り捨てた事業がわからない。
こうして考えると「選択と集中」が経営者の甘えであったことが浮き彫りになってはいないか。つまり、不採算部門をバサッと切り捨てることこそが重要で、何らかの事業に集中することは、じつはどうでも良かった。なのに、不採算部門を切り捨てることが出来ない経営者が、リソースを削ぐため「こっちに集中するから、少しだけ我慢して」と言った。この言い訳こそが「選択と集中」だった。言い訳だけしている分には良いけど、それじゃ「痛み」に耐えられなくて、実際に集中した事業を始めた会社が倒れた。
「選択と集中」をやらなかった、元々の強みにほどほどに投資した会社は、以降そんなに悪くなっていない。

この考察からわかるのは、経営者、トップ、リーダーの仕事とは、撤退するダメな部署を決断することである。それは嫌われる仕事であり、反発される仕事であるが、結局のところ、それができるリーダーが良いリーダー、できないリーダーが悪いリーダーなのである。みんなに痛みを与えて我慢させてはいけないのである。切るときはバッサリ切り捨てないといけない。


僕は、成果主義も同じ事だと思う。

失敗した「成果主義」:みんなから少しずつ給料を集めて、評価の高い人に報酬を出す(少しずつ切り取ってドーン型)

やるべきリストラ:今いる人の一部を切り捨て、そこで得たリソースを、まだこれからの人や、失敗しそうだけど良いチャレンジをしている人を含めたあらゆる人に配る(バサッと切ってパッパッ)

日本企業は、「今儲かっている人」を選択して報酬を出した。そしてそれは何の意味も無い。これから儲かる仕事は、そう簡単にはわからないからである。もちろんその人が次も儲かるかもしれない。でもその人のやり方のマイナスの部分がそのうち頭をもたげるかもしれない。だからこそ、「普通の人」「まだ儲かっていない人」を絞り上げても意味が無い。
一方、アメリカの企業の成果主義は、「いらない人」の首を切る。それはとても意味があった。もう会社に利益をもたらさない人、というのはある程度正確に評価できるのである。

儲かる仕事をする人に給料を出すことを、経営者の言い訳にさせてはならない。むしろ、経営者は憎まれてでも、働かない人を切り捨てないといけない。それこそが経営者、トップ、リーダーの仕事である。みんなに痛みを与えてちょっとずつ我慢する「成果主義」なんてやらない方が絶対に良い。やるなら、働かない人の首を切る覚悟、自分の首が切られる覚悟がいる。


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