落合陽一批判
僕は落合陽一より年寄りなので、単純にすごい人だと思っていた。
何の本か忘れたが本を一冊買って読んだ。
歴史の理解がボロボロで、認識も薄っぺらかった。
それ自体は落合陽一のクリエイティブな才能とは関係ない。自分だって歴史には疎くて偉そうなことなんていえない。だから落合陽一の仕事はやっぱり素晴らしいのかもしれない。
でもさ、今の社会はこういう問題があるんだ、こうなんなきゃいけないんだ、だって昔から日本はこういうクニなんだから・・・という文脈で語られる昔の日本が間違ってるとさ、たぶん今の日本に対する認識も間違ってるし、将来への提言だって間違っているかもしれない、って思っちゃうんです。
僕の言いたいことはこれでおしまいなんですが、最近バチバチに盛り上がっているものを見つけました。動画をちゃんと確認してから批判すべきですが、以前に買った本がひどかったので、お金を払わない範囲で、要するにこの記事の文字起こしを元に、批判してみます。
聞かれたことに正解を答えるのが仕事ではないので、そこはおいておこきます。でも、これだけで落合陽一の薄っぺらさが現れていると感じます。
(1)人間とは、手段であり目的ではない
僕には意味がわかりません。ググるとカントに由来するらしい。
カントは、
と言っているらしい。つまり
落合陽一の言っていることと逆です。つまりこの部分はこういう意味になります。
それでいいんでしょうか。
いやちょっとまとう。福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといえり」というのが、その後に「でも実際はそうなってないんだよ」ってつながるので、福沢諭吉が世界は平等だって言ってない、という話があります。実はその後できっとこれを否定しているんでしょう。
続きを読みましょう。
(2)社会のための手段が人間であって、人間は目的じゃないので
上記の文脈からすると、
社会が豊かになるために人がいて、人(それぞれの個人)が幸せになるかどうかは大事ではない
という意味になります。これなら言わんとすることはわかります。
彼は社会全体の幸せのために個人個人が我慢すべきだという意識を持っているようです。
ただ、この考え方はちょっと全体主義的な考え方です。
僕の理解では、こういう全体主義的な考え方は、20世紀の社会主義という壮大な実験によって否定されたと思います。しかし、落合陽一は新たな社会主義、集団主義を訴えようとしているのかもしれません。日本をアップデートするっていっているので。
この後を読んでもらうとわかるのですが、欧米に近づくことが彼の理想のように見えます。一方で、僕の意見ではアメリカとイギリスとフランスとイタリアはそれぞれ別々バラバラです。そして、彼の理想はアメリカ型のように見えます。
そしてアメリカは全体主義的な考え方からまあまあ遠い様に感じます。ソ連がアメリカに負けたということが意味することは、僕の理解では「社会全体の幸福」というのは、頭に思い描いた理想とは異なっていて、むしろ個人個人がそれぞれ幸せを追い求めた方が社会全体が豊かになる、ということだと思います。
いずれにせよ彼は、社会の幸せは個人の幸せより大事と考えているようです。続く部分もその文脈で読めます。
ソサイエティとは英語で社会。エコシステムは生態系で、経済的なネットワークを生態系に例えてよく使われます。つまり最初の文章は社会を成り立たせるために人間がいると言っています。
次の文は、人間が豊かになることを目指した社会は破綻するといっています。恐らく社会全体、工場なら工場全体がうまく動くために、個人個人は我慢しないといけない、という意味になります。
要するにこういうことです。
僕の考えでは、むしろ個人の豊かさを目指しているアメリカが最も豊かな社会を作っているので同意しません。後でまとめますが、彼の思想は今の団塊世代、全共闘世代の1970年代の考え方に似ているように感じます。
次へ行きましょう。
この話は
人間より上位の存在(神)を仮定することによって契約が可能になる(日本にはそれがないのが問題)
と言いたいのだと思います。
これが薄っぺらい。
(3)西洋国家に存在した……つまりキリスト教的西洋国家に存在した神の定義みたいなものが、天皇制でなくなってしまった
これは前の話がないとわからないですね。明治期の天皇制が現人神としてキリスト教的一神教に対抗したという話を聞くので、あれ?って思いますが、それが戦後になくなってしまったということを言っているのかもしれません。
ただ、西洋をまとめて一緒くたにする思想がどうも薄っぺらく感じるのです。
「ローマ人の物語」とか読んでると、キリスト教以前のローマ帝国も素晴らしいと感じませんか?少なくとも契約社会という概念が明らかに存在しています。キリスト教以前のローマ帝国には、多神教的な神はいますが、絶対神がいません。それでも契約社会は成り立つし、あれだけ大きな帝国が効率よく運営されています。
前に引用した学問のすゝめは、「西洋人の中にも金持ちもいれば貧乏人もいる。その違いは学問だ。だから学問をやるんだ」といっています。つまり、西洋社会、キリスト教社会においても貧しい国は存在します。
お金だけでは無く、契約社会という観点で見ても、現代でも、カトリックの総本山イタリアは、ルールなんてあってないようなもので例外だらけのぐちゃぐちゃな国です。ギリシャもそう。一方でドイツは粋すぎたルール遵守でちょくちょく失敗します。
大陸法と英米法の感覚の違いもあります。
すいません。背伸びしました。大陸法と英米法の違いわかりません。
でも英米とドイツフランスは明らかに文化が違います。そしてドイツはルールがっちり、フランスはルール無視に近いです。英米は似ているようにも感じますが、イギリスは法律が明文化されません。
なので、西洋国家が神の定義がある(ので良い)といわれると、僕は、
「神がいていいときもあれば悪いときもあるよ」「ヨーロッパだってしっかり定義していない国もあれば決まりすぎてて苦労している国もあるよ」
という、つまらないですが当たり前の答えしか浮かばないのです。学問のすゝめでもそう言っているので、彼の主張は明治時代より解像度が下がっているように感じます。
(4)日本社会は拝金や、成長する高度経済成長的エコシステムによって補ってきた
中国やアメリカと比べると、明らかに日本は拝金主義ではありません。教育や就活の現場を見れば100人が100人そう感じるでしょう。アメリカ人も中国人も、まずお金が儲かる仕事に群がります。儲からない仕事はやりません。恐らく中国やアメリカを見て日本に帰ってくると、ほとんどの人は、日本はもっと拝金主義になるべきだと考えるでしょう。
高度成長期の日本は、もちろん今よりもっと拝金主義でした。それでも、現代中国やアメリカほどの拝金主義ではありません。
この認識もバブル以前の日本人的ですよね。今の若い人に伝わるか心配なくらいですが、1980年代とか、バブル崩壊直後には、「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」とか、お金ばかり追い求めても本当の幸せは得られないとか、公害を垂れ流して人の迷惑を顧みない、24時間戦うエコノミックアニマル、というのが日本人の、日本人に対する認識でした。
こういう認識が1980年代っぽくて薄っぺらい。彼のお父さんの認識からアップデートされていないように感じるのです。
繰り返しますが、今の(正確には2023年までの)中国のエコノミックアニマルぶりは当時の日本人がドン引きするレベルです。おむつを朝から並んで買い占めたり、決して謝らず、ホテルにある備品を全て持って行こうとして中国語で全てなんとかする姿は当時の日本人でもありえません。一方のアメリカは、小学校も医者も全てお金で決まります。やはりここまでの拝金主義は当時の日本でもあり得ません。
一点補足すると、ヨーロッパ社会は拝金主義的では無い国も多いです。儲かることでもやらない。ドイツやフランスでは5時を過ぎたら働かない、土日も休む、というのが徹底されます。スーパーマーケットなら、他人がみんな休んでる土日に働けば間違いなく儲かります。それでもやらない。これはある種の信念があるんだと思います。
こういうところだけアメリカでは無くヨーロッパを例に持ってきているように感じます。そして、ヨーロッパ各国は各国ごとに問題を抱えています。日本と比べて社会が効率的に運営されているかは怪しいです。
そりゃあだれだって、子供は中国人並みに勉強し(でも創造性を失うことは無く)、アメリカ並みに優秀な人を集め(でも貧乏人やルーザーの凶悪犯罪は起きず安全な土地に安く住め)、ヨーロッパ並みに効率よく働き(でも夜中に欲しいものは手に入るし経済も発展し続け)、イタリア人のように人に優しく(でも仕事は全うし)とできればそれに越したことはありません。でも、当たり前ですが、ユートピアは世界に一つもありません。
生産社会っていうか、マスメディア主義の日本社会
マスメディア主義の日本社会は意味がわかりませんが先に行きましょう。
(5)例えば今でもアメリカだったら、宣誓するじゃないですか。大統領が。あの機能は我々の社会にはついてないよね?
大統領の宣誓というのはこちらですね。
これはアメリカだけです。
アメリカはその成立から移民国家であり、理念を共有しないとだれがアメリカ国民か定義できない、非常な特殊な国です。
フランスを見てみましょう。
フランスでは、憲法裁判所(最高裁にあたる)長官が、「正式に選挙で大統領が選ばれたこと」を宣言します。
こんな記事もありました。
現在のフランスの骨格は、宗教を背景にした王様を否定することで成り立っています。メートル法もキログラムもそういう宗教を排したところで作られたもので、それを彼らは誇りに思っています。
それがフランスの誇る国家の根幹、政教分離(ライシテ)です。
大統領が聖書に手を置いて宣誓でもしようものなら暴動が起きます。
イギリスはどうでしょうか。イギリスには国王と首相がいますね。
国王の交代では戴冠式が行われます。
宗教的ですね。首相はバッキンガム宮殿に行き、国王から組閣の要請を受けるというのが儀式的な手続きのようです。
日本ととてもよく似ていませんか。
ドイツはどうでしょう。ドイツも大統領と首相がいますね。
ドイツやイギリスの仕組みは、宗教的な面、国の根本的な骨格となる面は国王や大統領が担い、実質的なリーダーとして首相がいる、という形態を取っているようです。こちらも日本に近いように見えますが、日本よりもより脱宗教的ではないでしょうか。
イギリスもフランスも、名誉革命やフランス革命の名残を感じますね。
日本はどうでしょうか。首相は国民が選んだ国会議員による選挙で選ばれ、天皇陛下に任命されます。イギリスとそっくりです。
天皇陛下の即位にはこれだけの儀式があります。
これら全てが日本の骨格です。
改めて見ると、日本国憲法はヨーロッパ的な権力構造を上手に作っていますね。西欧のスタイルと比較して、何というか、とてもフツウですよね。
改めて。
ここだけ切り取って話を進めるのはどうなんでしょうかねえ。
フランスは人間より上位の存在を否定する儀式をしていますね。
中国など社会主義国家も宗教を否定しています。それでソビエトは崩壊しましたが中国はうまくいっているように見えなくもない。
そんな様々な国があり、それぞれに良い面と悪い面がある。むしろアメリカは例外中の例外で、アメリカを真似しようと思うなら、ちょっとやそっとのアップデートでは難しい。
個人的な感想ですが、落合陽一の発言は、新しい社会を作りたいという強い欲求、強い承認欲求、素晴らしい頭脳、そして過去と他人に対する敬意と関心の薄さを感じます。なぜ人は不合理なルールを守っているのか、あるいはなぜ逸脱するのか。そのあたりに対する考察が薄く、言いっぱなしのことが多い。
この感覚は社会主義に染まった1970年代の大学生のテイストを感じます。
社会主義国家(だった)の一つに中国があります。中国で起こった、毛沢東がスズメを駆除してことによる飢饉は有名です。
単純な理想を追い求めた結果、本来の意味でのエコシステム(生態系)全体に悪影響を及ぼすことがある、という典型例です。
彼はこの事件を知っているでしょうか。
北朝鮮への移住推進運動というのもありました。
現代社会に問題が無いとは僕も言いません。問題だらけです。だからこそ、正しい認識に基づく有意義な変革をしないといけません。彼の意見が正しい認識に基づいているとは思えないので、彼はスズメの駆除や北朝鮮への移住を推奨しそうにみえるのです。
絶対的な規範を日本人の多くの人が共有して、それを元にした社会というのは一つの形かもしれません。でも、それは当然デメリットもあります。そのメリットとデメリットを理解した上で訴えているならば聞く気もしますが、うわべだけの理解で改革しようとされると、まあデメリット出ますよね。絶対。
そもそも日本ではたくさんの改革が行われていますが、例えば大学一つ取っても改革で改善されたことってそんなに多くない。
落合陽一が薄っぺらいと僕が言う意味が伝わってくれればうれしいです。