「合理的配慮」の正しい理解のために① 障害の「医学モデル」の問題点の整理

 先日、障害のある人に対する合理的配慮について大きな誤解をして論じている記事を目にしました。
 「合理的配慮」の考え方は、基本的に障害の社会モデルに沿っていて、医学モデルを元にした障害者観では根本的に誤った対応になってしまいます。ここでは「合理的配慮」とは何か、その本質に迫って解説したいと思います。

障害の「医学モデル」とは

 1980年代頃まで、障害というものをどのように捉えるかについての基本的な考え方は、「何らかの疾病・疾患を抱えるため社会生活に支障が生じる」という「医学モデル」と呼ばれるものでした。すなわち(原因が解明されているかどうかは問わず)何らかの疾患や疾病が医学的に確認され、それにより様々な機能障害や能力障害が生じ、最終的に社会生活にハンディキャップを抱えてしまう、というものです。
 下の図は上記の障害の捉え方を整理したWHO(1980)によるICIDH(International Classification of Impairments, Disabilities and Handicaps:国際障害分類)です。

障害の医学モデルのメリット・デメリット

 この医学モデルにもとづく障害概念の捉え方にはメリットとデメリットがあります。まとめると以下のようになります。

 まずメリットとしては、障害があるかどうかの判断は医学的に疾病・疾患としての診断に委ねられますので、ある意味で障害者と健常者を明確に区別することができます。したがって”誰が要支援者なのか”がハッキリとし支援リソースをつぎ込むことができるため、強力な支援を受けることが可能になります。
 もう一つは、医学的診断によってどういう障害なのかが明確になるため、支援方法も自ずと明確になりやすいという点です。例えば医学的診断によって「両下肢のまひ」という診断が下された場合、両下肢を使う様々な活動(例えば移動や階段昇降など)が制限されることが予想されます。そこから具体的な支援として移動時の介助やバリアフリーな環境などが必要になるだろう、と導かれます。
 さらに医学モデルの隠れたメリットとして、このモデルは社会的理解が得やすいという特徴があります。ある種の道徳観・宗教観と結びつきやすいので(例えば慈愛の精神、施しの大切さ、とか)、一見すると障害のある人に対して非常にポジティブな考え方であると捉えられやすいです。そのため”障害とは何か”を医学的モデルで捉えている人は、自分の考え方は正しいと思い込みやすく、なかなか抜け出ることが難しい側面もあります。

 一方、医学モデルには様々なデメリットがあります。まず最大のデメリットは障害者と健常者の隔たりが大きくなる、ということです。障害という診断がつく=健常者ではない、という意味になり、自分とは違う人たちという意識になりやすいです。そのため差別につながりやすいという側面があります。
また支援方法が明確になりやすい、ということは逆に支援方法が固定化されてしまうことにもつながりやすいです。
 例えば「両下肢のまひがある」と診断された方が、生活をしている中で下肢が使えないことをカバーするために両上肢に負担がかかり、結果として両上肢にも不具合が生じることがあります(決して稀なことではなく、ほとんどの事例ではそうしたことが生じます)。この場合、新たに両上肢についての支援がなされるかどうかは、両上肢が障害であると認定されるかどうかに左右されます。すなわち一つの障害診断は特定の支援方法を導きやすいが、障害の状態が変わった場合に柔軟に対応できなくなる、というデメリットがあるのです。

 また医学モデルの問題として、医学的診断があることが支援を与えることの前提になっていますので、診断が下されない限りは支援が与えられない、もしくは与える必要はない、ということになってしまいます。例えば未診断だけど学校生活で困り感が生じている(おそらく発達障害であると思われる)子どもの保護者さんが学校に配慮をお願いしたら「支援を受けたいならば診断をもらってきてほしい」と言われたなど、診断があることが支援を受ける前提になっているのが医学的モデルです。したがって例のような未診断の子どもへの対応が遅くなったり、放置されることにもつながります。

医学モデルの根底にある「社会的義務の免除」と「権利の制限」

 さらに医学モデルの問題点は、根本的には配慮や支援に対する考え方にあります。前述したように医学モデルは何らかの疾病・疾患があることが前提になっています。そして医学的には疾病や疾患を有している人は「治療に専念すべき」ということが基本になっているので、社会的義務の免除と権利の制限がセットになっています。
 例えばインフルエンザに罹患した場合、インフルエンザが治るまでは投薬による治療を行いながら、自宅等で安静に療養することが求められます。特にインフルエンザのように他者に感染を拡げる可能性がある疾病の場合は社会と隔絶して対応します。すなわち基本的人権に制限がかかり、治療専念義務が生じます。

 その一方、社会から隔絶されると社会活動に参加できないため、私たちに課せられている様々な社会的義務は免除されます。例えば勤労や納税、あるいは我が国では義務から外れていますが兵役、さらに憲法上は保護者に「受けさせる義務」として定められている教育など、「疾患や疾病がある」場合は免除されることがほとんどです(インフルエンザの場合は、学校は欠席扱いではなく「登校停止」として処理され内申点に影響がないようになっています。

 この社会的義務と権利というのはある意味相反する概念です。私たちの社会はこの2つの概念のバランスをとることで成立しています。たとえば学校や会社を病気で休んだという人が街中で遊んでいるのを見かけた場合に「ズル休みだ」と非難するのは、こうしたバランスが崩れていることを発見し、それを非難することで正そうという心の動きによるものと思われます。

 医学モデルでは、こうした「社会的義務の免除」と「権利の制限」という考え方が根本にあります。そのため「合理的配慮」という言葉を聞いた時に「本来やらなくてはいけない様々な社会的義務を免除する」ことであると解釈してしまいます。これは合理的配慮の意味とは全く異なっていると理解していただく必要があります。

 次回は合理的配慮の考え方のもとになっている「社会モデル」について整理していきたいと思います。

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