「合理的配慮」の正しい理解のために③合理的配慮の基本的考え方
前回、説明したように「合理的配慮」は障害の社会モデル、すなわち周囲の環境整備や配慮の有無によって障害者の社会参加が左右される、という考え方を前提にしています。ここでは「合理的配慮」の考え方を社会モデルと照らし合わせて考えてみます。
「合理的配慮」とは
障害者権利条約によると、合理的配慮とは
と定義されています。また「第二十四条 教育」においても
とし、その権利の実現に当たり確保するものの一つとして、
と位置付けられています。
この難しい用語や表現の並んでいる文章を読んで、そのまま内容を正しく理解することは難しいと思います。しかしながら、前回までの2回分のnoteをお読みになった方なら、ある程度、理解できたのではないでしょうか。
定義を読み砕いてみると
具体的な言葉に置き換えて読んでみましょう
「障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するため」という箇所は、障害者が様々な社会活動に参加するため、と置き換えて読んで良いと思います。そのために「必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるもの」は、周囲の環境や配慮を調整すること、と置き換えても良いでしょう。それが「合理的配慮」である、ということになります。
つまり、
が合理的配慮ということになります。
医学モデルの場合、障害者が社会活動に参加できなければ、社会的義務を免除して治療に専念するようにしていました。それが障害者に対する配慮であり支援である、と考えられていたのです。しかし、社会モデルでは障害者の社会参加は周囲の環境や配慮の有無によって変わりますので、社会参加を可能にするために周囲の環境や配慮を与えることが正しい障害者支援である、と変わってきたのです。
ただし、合理的配慮の定義には以下の文章が続いています。
これは端的な言葉に直せば、健常者とのバランスを崩さない、そして配慮提供者に大きな負担をかけない、という制限がかけられているわけです。
「均衡を失しない」つまり健常者とのバランスを崩さない、というのは、その配慮によって障害者が健常者よりも有利になるようなものではない、ということです。例えば大学入試において肢体不自由のある人が筆記具を使用してテストに回答することができない、という場合に、その人を別室にして口頭による解答を許可したり、あるいはPC操作による解答を認める、などはOKですが、他の受験者よりも障害があるという理由で加点される、というようなことはNGです。あくまで入試ですので「その人が持っている学力を測定する」という本質的な目的を妨げない範囲で認められることが前提です。
「過度の負担を課さない」、つまり配慮提供者に大きな負担をかけない、というのは金銭的または労力的負担のどちらにも当てはまります。例えば車イスの人がレストランで食事をする場合、レストランの入口に大きな段差があると、車イスでの入店が困難です。しかし、レストランの入り口にスロープを作るのは金銭的に大きな負担になるため、それをレストラン側に強要するわけにはいきません。具体的には、車イスの人が入店したいという希望を示した場合、レストランのスタッフ(店員)が何名かで車イスごと抱え上げて入店させる、ということは店側にとって過度の負担ではないと考えられます(もしお年寄りが一人で運営している小料理屋のようなところならば過度の負担として該当するかもしれません)。
イメージで考えよう
上記のような考え方のイメージは、次のようなイラストでよく紹介されています。
これは3人の子どもがサッカーの試合を観戦している場面です。話をわかりやすくするために、観戦のために入場料を等しく払っていることにします。
そのサッカー場では、子どもはフェンスが高いと観ることができないと考え、子ども料金で入場した場合に踏み台が貸し出されることになっています。この踏み台は子供の平均身長を120センチと想定し、フェンスが150センチの高さなので30センチの踏み台を一つずつ渡すことにしています、というのが左側です。ある意味で平等(Equality)な配慮をしている訳ですが、問題は子どもの身長を平均でしかみていない、つまり多様性を想定していないことにあります。これでは結果として、身長が120センチよりも低い100センチくらいしかない子どもは30センチの踏み台一つあっても見ることができません。逆に身長が高い(160センチ)の子どもは30センチの踏み台を利用することで他の子どもよりも著しく観戦しやすくなります。これでは同じ金額の入場料を払っているのに不公平さを感じてしまいます。
一方、右側の図は、身長が高い子どもには踏み台を渡さず、身長が低い子どもには踏み台を多く2台渡した場合です。結果として、身長が低い子、高い子、平均的な子の3人が同じような観戦しやすさを享受できていることが分かります。つまり子どもの多様性を想定し、それに応じた個別の配慮を行うことによって結果として公正さ(Equity)が担保されています。
ここでもう一つ重要なのは、左の図でも右の図でも、使用している踏み台の数は3つで変わらない、ということです。すなわち支援の量の総体を増やすといった負担は生じないけれど「変更及び調整」することによって結果として享受できるものが同じになるようにする、というのが合理的配慮の本質なのです。
合理的配慮に対する誤解
世の中には「合理的配慮」という言葉を誤って使用していると思われる事例が多くあります。以前、私の所属先の大学でも教育実習における合理的配慮の提供について議論になったことがあります。教育学部では教育実習は必修なので、必ず参加しなければならないものなのですが、様々な事情(身体的なこと、精神的なこと)でどうしても参加できない、という場合があります。そうした学生への対応を検討する際、とある先生から「合理的配慮して教育実習に参加しなくても単位を認定すべきではないか」という意見が出され、私を初めとする特別支援教育関係者から大反対が起こるということがありました。特別支援教育関係者なら「合理的配慮」という印籠を出せば賛成すると思われていたのか、その意見を出した先生はかなり面食らっていましたが。
上記の何が問題かというと、合理的配慮というのは本来の意味では「どのような配慮をすれば教育実習に参加できるか」という観点で考えるべきものであり、「教育実習に参加しなくても良いという配慮」をすることでは全くありません。すなわち疾病を理由に通常の教育課程で求められている「教育実習」という活動を免除してしまうというのは医学モデルの考えであって、社会モデルの考え方とは相容れないものなのです。
小学校などの教育現場でもこのような誤解は多いようです。例えば「合理的配慮として漢字のトメ・ハネは大目に見る」というのは合理的配慮ではありません(*そもそも漢字のトメ・ハネを必要以上に指導するのは誤った指導だと思いますが、あえて例として挙げています)。「どうすればトメ・ハネを書けるようになるか、そのために特別な教材を使用したり、特別な方法で指導をする」ことが合理的配慮です。あるいは「配慮をしすぎるのはどうか、必要以上の配慮で子どもの可能性を潰してしまう」という意見は、合理的配慮を「社会参加の免除」と勘違いしている、医学モデルに基づいた誤解であるとしか言いようがありません。
もちろん、合理的配慮にも課題があります。全ての問題が合理的配慮の提供によって解決するわけではないし、合理的配慮の提供が前提になり過ぎて、基礎的な環境整備が行われないという事態は避けなければなりません。
その辺りについては、別の機会に書きたいと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?