メディアという視点から見た「新教育」

メディアという視点から見た「新教育」

はじめに
 「総合的な学習の時間」が、小・中学校では二〇〇二年度から、高校でも二〇〇三年度から実施され始めました。教師中心の「知識の詰め込pみ教育」を脱却して、いわゆる児童中心主義教育による「生きる力」の育成を目指すものです。その結果、皮肉なことに「学力低下」が問題となり、教育現場には戸惑いと混乱が広がっているようです。そこで、児童中心主義教育の歴史を振り返って、今後の実践への示唆を得ることができないかと考え始めました。
 児童中心主義教育は「新教育」とも呼ばれ、日本教育史の分野でも膨大な量の研究が積み重ねられてきています。屋上屋を架すことになってしまうかもしれませんが、今回は日本の新教育について「メディア」という視点から考えてみたいと思います。
 この視点は、京都大学の辻本雅史会員に教えられたものです。辻本会員は次のように言っています。「メディアが違えば伝達する知が違う。故にメディアと知とは互いに相関関係がある」「知は、それを伝えるメディアにふさわしい思想に再構成されて発せられる」。辻本会員は、この視点でおもに近世の思想を分析されてきました。私は、この視点で日本の新教育を分析してみたいと思います。

一.「新教育」の定説への疑問
 日本の新教育といっても、いわゆる「大正新教育」と「戦後新教育」の二つがあります。ここではおもに前者について考えます。「大正新教育」、あるいは「大正自由教育」に対して、定説を与えたのは中野光さんの『大正自由教育の研究』(黎明書房、一九六八年)であったと思います。中野さんはこの書で、次のように述べています。
 「大正自由教育」——必ずしもその呼称は一定しておらず「大正新教育」ともいわれるが——とは、主として大正期において、それまでの「臣民教育」が特徴とした画一主義的な注入教授、権力的なとりしまり主義を特徴とする訓練に対して、子どもの自発性・個性を尊重しようとした自由主義的な教育であり、そうした立場からの教育改造が一つの運動として展開されたことから、それは、しばしば大正自由教育=新教育運動とも呼ばれているものである。(中野、一九六八、一〇頁)
 中野さんは、「大正自由教育=新教育運動」の胎動を樋口勘次郎に求め、樋口の教育思想と実践を取り上げることから第一章第一節を始めています。
 東京師範学校附属小学校訓導であった樋口勘次郎は、一八九六(明治二九)年に「飛鳥山遠足」を実践し、自身の教育実践の特色を「活動主義」・「統合主義」と名づけました(『統合主義新教授法』一八九八年)。樋口は「生徒の自発活動によりて教授せざるべかず」という観点からこうした実践と主張を展開したわけですが、ここで私が疑問に思うことがあります。
 「生徒の自発活動によって教授するという考え方や言説は、(実践はともなわなかったとしても)もっと以前からあったことではないか?」。
 よく知られているように、日本に「生徒の自発活動」という概念を輸入したのは、渡米してオスウェーゴー師範学校でペスタロッチの教育思想を学んだ高嶺秀夫です。高嶺の教えを受けて、東京師範学校教諭若林虎三郎と附属小学校訓導白井毅は、『改正教育術』(明治十六年)を著し、「教育の根本精神」を次のように宣言しました。
一、活発ハ児童ノ天性ナリ 動作ニ慣レシメヨ 手ヲ習練セシメヨ
二、自然ノ順序ニ従ヒテ諸心力ヲ開発スベシ 最初、心ヲ作リ後之ニ給セヨ
三、五官ヨリ始メヨ 児童ノ発見シ得ル所ノモノハ決シテ之ヲ説明スベカラズ(後略)
 この書物を、唐沢富太郎は次のように解説しています。「本書によって「心性開発」ということが教育界の常套語となり、開発教育を心得ずしては教壇上に立つことが出来ないほどに、その全国的影響は大きかった。赤井米吉は「先期の迷信的教師中心主義に代って、児童中心主義の時代となったので、我国の教育教授活動における児童発見の第一ページはここに始まるのである」(「教育」三巻二号)と称賛し(後略)」(唐沢、一九八〇、十八頁)。
 とすれば、中野光さんのように、樋口勘次郎に「大正自由教育=新教育運動」の胎動を見るのは適切なことなのでしょうか? そもそも樋口は何が新しかったのでしょう? 樋口以前の「活動主義」は実践をともなっていなかったが、樋口の場合は「飛鳥山遠足」という実践に裏打ちされた主張であったところに「新しさ」があったのでしょうか?
 しかし、樋口勘次郎も、ふだんの授業では(「遠足」という活動と知識とが「統合」されるように工夫していたとはいえ)、すべてを「生徒の自発活動によりて教授する」ことはなかったようです。また、こうした樋口の実践がすぐに全国へ波及して「活動主義」・「統合主義」の教育が実践されていったわけではありません。「言説は流通するが実践がともなわない」という点では、樋口の場合も明治一〇年代のペスタロッチ主義と変わるところがない気がします。
 「活動主義」がもっと積極的に提唱された大正時代でも、実際に「自由教育」「新教育」を実践している学校はわずかでした。師範学校の附属小学校やごく少数の私立学校、長野県や千葉県などの公立小学校の一部で実践されただけです。日本全体から見た時、「言説は流通するが実践がともなわない」という点では、それほど変わるところがないように思います。
 とすれば、「大正新教育」はいったい何が新しかったのでしょうか?

二.教育言説の抽象性・理念性
 自由大学運動の理論的指導者であった土田杏村は(拙著『土田杏村の近代——文化主義の見果てぬ夢——』ぺりかん社、二〇〇四年)、『自由教育論 上巻 哲学的基礎に立てる教育学』(一九二二年)を著して次のように述べています。
 たゞ併し念を押して置きたい事は、私が「教育には教育者と被教育者とが必要である」といつた場合は、何も世界に事実的に此の両者が存在して居ることを断言しなかつた事であります。世界の何処ぞの村の、何処ぞの小学校に、先生と生徒とが居るといふ事を申さなかつた事であります。さうなると問題の趣旨は全く違つたものとなつて居る。私はたゞ論理的にさういつたゞけである。「苟くも教育といふことを考へる以上は教育者と被教育者とを必要とする」といふ事を考への上で主張したゞけである。
 此れは今後の私の議論と、従来の教育学書の議論とを区別して、常にどの議論にも現はれて来る重要な特色でありますから、唯今のうちから念を押して置きます。(複雑の問題になると其の区別は次第に困難となって来るから)。何故事実問題を顧慮しないかといふと、我々は言はゞ教育の模型を研究して居るのであつてさうしなければ議論が不純粋になる。化学者が水を研究するにはたゞ H2O といふ化学式のものに就て考へる。現実の水はどうしたつて H2O などいふ純粋のものにはならない。多少づゝ何か其れに混入して居る。純粋の H2O はたゞ頭の中だけで考へられる模型であるかもしれない。其れで充分である、いや其れが誠に結構なのだ。
 教育の場合にも其れと全く同一であつて、たゞ「教育者と被教育者とが在る」と仮定すれば其の仮定だけで宜しい。世界の何処を尋ねても一人の先生と生徒が居ない。それで結構だ。人間がすつかり滅亡して了つて、根本的に教育の事実を云々出来ない。其れでも何の差支へが無い。たゞ教育者と被教育者とを仮定して、其処に行はるゝ教育とは何ぞやと研究する事が出来るのであります。(土田、一九二二、二九〜三一頁)
 「人間がすつかり滅亡して了つて、根本的に教育の事実を云々出来ない。其れでも何の差支へが無い」。これほどまでに抽象的で理念的な(事実を無視した)教育に関する知(教育知)というものが成立することは、明治時代にはありえなかったでしょう。こうした「教育知の抽象性・理念性」は、土田杏村に限らず、この時期から現在に至るまで「教育界」によく見られる特色、「教育の世界」が経済の世界や政治の世界と区別される、まさに「教育界の特色」ではないかと感じています。
 たとえば、有名な「八大教育主張講演会」(一九二一年八月一日から八日まで東京で開催)。そこでは「自学教育論」(樋口長市)・「自動教育論」(河野清丸)・「自由教育論」(手塚岸衛)・「一切衝動皆満足論」(千葉命吉)・「創造教育論」(稲毛金七)・「動的教育論」(及川平治)・「全人教育論」(小原國芳)・「文芸教育論」(片上伸)といった「主張」が展開されました。これらは、いずれも一般的な公立の小学校では、実践するのがほとんど不可能な言説ばかりです。
 澤柳政太郎が創設した成城小学校の主事・小原國芳は、この講演会で次のように述べました。「つまり私は或る一方にのみ偏した教育は拒否するのである。その意味に於て私は主義が嫌ひだといふのである。然しそれは、無主義無定見といふことではない。無主義の主義である。世界中にありとあらゆる教育上の理想なり方法なり施設なりで我が日本に、我が成城校に、我が愛児達に応用され得るもので、しかも私自身の人格に同化し得て私のものとすることが出来るものがあるならば、何でもかんでも一切を拝借したいのであります。その意味に於て、我が成城学校には何等の主義もない」(小原、一九七六、二六六頁)。ようするに「何でもあり」という主張です。私は、これほどまでに無内容の主張をどうどうと主張しえる状況に驚きます(この「全人教育」という理念は、よほど魅力的とみえて「戦後新教育」でも積極的に謳われました。たとえば、京都府では新制高校発足時に、いわゆる「高校三原則」の一つである「総合制」を実施する理由として「全人教育を実現するため」という看板が掲げられました)。
 しかも、講演記録集『八大教育主張』は、「一九二二年(大正十一年)一月に初版を出してから約二年後の二四年(大正十三年)に至るまでのあいだに十回もの版を重ねた」(中野、前掲書、一四七頁)。こうした事実を見ると、「教育界では、なぜこれほど抽象的で理念的な(現実離れした)言説が現れ、流通しえるのか?」を考えてみたくなります。とすれば、私の考察はこの時期の「教育界」あるいは「教員社会」へと向かわざるをえません。

三.「教員社会」の脆弱さ
 明治の終わりごろに小学校への実質的な就学率は九割以上になります。それはすなわち、数多くの小学校教員が存在していたことを意味します。一九〇一(明治三四)年に一〇万人を超えた小学校教員は、一九一〇(明治四三)年に十五万人、一九二四(大正十三)年に二〇万人、一九三四(昭和九)年に二五万人、一九四三(昭和十八)年に三〇万人と、増加の一途をたどります(『日本近代教育史事典』)。小学校教員や彼らを養成する師範学校・教育会などの教育関係者は、「教育界」あるいは「教員社会」とでも呼ぶべき共同体を形成します。しかし、そうした共同体があっても、小学校教員の地位や身分はきわめて不安定で危ういものであったようです。
 山田恵吾「千葉県小学教育研究所の創設過程——一九三〇年代前半における教員統制の一断面——」(『日本教育史研究』第二三号)を読むと、政治的な勢力や経済的な状況によって、いとも簡単に教員の異動や解雇がおこなわれていたことがわかります。一九三〇年代においてもそうだったとすれば、それ以前の大正時代では「教員社会」の自立性はもっと弱く、「教育」が政治や経済から自立した独自の領域であることを求める声には、教員一人ひとりの生活(人生)がかかっているだけに、切実なものがあったことでしょう。
 ここで私は、広田照幸さんの有名な論文「〈教育的〉の誕生」を思い出します。広田さんは、「教育的」という言葉の用法を雑誌『教育時論』から分析して、次のように述べています。〈一八九〇(明治二三)年では「教育的」の使用例は二つしかなく、「教育的」はまだ新奇な語であった。一九〇〇(明治三三)年には一〇年前より使用例が急増する。機械的な翻訳語としての「教育的」(Padagogischeの直訳)や価値的なものを含む「教育的」など、いろんな「教育的」が出揃っている。一九一〇(明治四三)年になると「非教育的」という言葉が登場する。これは規範性を帯びた「教育的」なるものが定着したことを示している。「教育の/教育に関する」という意味の「教育的」の比率が減少し、代って規範性を帯びた「教育的」の割合が増加している。一九二〇(大正九)年になると、規範性を帯びた「教育的」が圧倒的になっていく。「教育的であるか否か」がまさに言説の中心的なポイントとして浮かび上がってきた。以前の議論が社会秩序や風俗の悪化等、政治や社会の問題と教育の問題とが未分離のまま語られていたのに対し、「教育的」の射程は政治や社会と切り離した教育の問題化を可能にする。次の例はそれを端的に示している。「(啓明会の教育改造四綱領について)併しながらそれは、私から見れば、教育的意味に於てよりもより多く政治的意味のものとして見る時に、妥当として諾れる。(一二七六号、編集部 津田光造「啓明会の四綱領」)」「それは、教育を政治の方面から見た場合であつて、それを教育的に見れば、現代の教育に取つては、教育思想の民本化よりも、教育思想の個人主義化が必要であると考へられるからである。(同)」。すなわち、教育という事象が独自の価値と論理を持つ領域であるということを、「教育的」の自明化は内包している。そうである限り、「教育的」見地からの考察は、問題を脱政治化するという要素を含み込んでいるのである。もはや社会秩序や政治体制にとっての問題(法や道徳の領域)ではない、別種の問題領域が「教育的」なる基準によって構成されるのである。〉(広田、二〇〇一)。
 教員の側から見れば、そのようにして「問題を脱政治化」しなければならない切実な理由があったからこそ、大正期には規範性を帯びた「教育的」が圧倒的になったのだろうと私は推測します。彼らが政治と教育を区別しようとしたのは、裏から見れば、いかにこの時期、「政治の方面」から教育が見られて政治的に「教育問題」が解決(?)されていたかを物語っているように思います。
 とすれば、この時期に土田杏村があれほどまでに抽象的で理念的な「自由教育論」を展開したのも、「教育という事象が独自の価値と論理を持つ領域であるということ」を学問的に裏づける必要があったからではないか。教育に哲学的基礎を与えて教育学を学問として自立させることが、「教育界」・「教員社会」という共同体を他の共同体から(差異を際立たせて)自立させるために求められていたのではないかと推測します。
 それを可能にし、また必要としたものこそ、この時期から大量に生産され流通する本や雑誌・新聞などの活字メディアであったのではないかというのが、私の第一の仮説です。この仮説について、もう少し詳しく述べます。

四.活字メディアと「教育知」
 大正時代の新教育について調べ始めると、気づくのは教育言説の圧倒的な多さです。私は卒業論文を書く時に、大正自由教育の中でも「もっとも自由な学校であった」と言われる児童の村小学校の教師・野村芳兵衛の教育思想とその実践を調べたのですが、あまりにも資料が多くて困りました。明治時代とは比べものにならないほど、圧倒的な量の教育に関する本や雑誌・新聞が刊行され始めたのが大正時代でした。
 本や雑誌・新聞が数多く出れば出るほど、それに見合うだけの原稿と執筆者が必要となります。執筆者は、他の執筆者との違いを際立たせるために、さらには自分自身が先に書いた原稿との違いを打ち出すためにも(自分の言説に商品価値を付けるために)、「新しい言説」を展開しなければなりません。そうして他の言説との差異(目新しさ)を競い合いながら、教育言説が大量に生産されていく。
 活字メディアに載った知を消費する人間が、もっぱら教育学者や師範学校関係者、教育行政担当者、ほんのわずかな数しかいなかった訓導(正規の小学校教員)……だった時代は、機械的な翻訳語としての「教育的」(Padagogischeの直訳)でよかったかもしれません。しかし、小学校教員が飛躍的に増え、彼らに向けて知を発信する活字メディアが圧倒的な量となった時、知はおのずからその性格を変えていく。知は、機械的な翻訳語としての「教育的」(Padagogischeの直訳)では済まなくなり、広田さんの言う「規範性を帯びた教育的」な知、政治や経済の世界を捨象した(外部性を喪失した)「教育」の内部でささいな差異を競い合う抽象的で理念的な(事実を無視した)教育知となったのではないかと推測します。
 そこで問題にされるのは、「実際の教育に役立つかどうか」ということではなく、「いかに新しい観点から教育(=教員にとっての仕事・生活)を価値づけてくれるか」という「目新しさ」であったのではないか。しかしまた、そうした知が「教育」の内部でささいな差異を競い合う抽象的で理念的な(事実を無視した)教育知である限り、「教育(=教員にとっての仕事・生活)」を十全に価値づけることは不可能なので、その知は次々と使い捨てられ、また「新しい知」が求められていく(新しい教育知が生産され、流通し、消費される)。「大正自由教育=新教育運動」の「新しさ」とは、こうして「教育言説が目新しさを競い合う」という事態そのものの「新しさ」にあったのではないかというのが、私の第二の仮説です。

五.鉄道というメディアと「知」
 活字メディアとしての本や雑誌・新聞などは、どのように流通したのでしょう? 現在、私は教育雑誌のいくつかを定期購読して自宅に郵送してもらっています。明治末期あたりから、そうした「郵送による知の流通システム」が確立されたようです。大正新教育に関する知を入手した教員たちも、書店で本や雑誌を手に入れる場合よりも、自宅や学校に郵送してもらうケースのほうが多かったのではないかと思います。
 郵送は、この時期ですから、もっぱら鉄道によるものでしょう。書店に届く本や雑誌も、鉄道によって運ばれました。とすれば、鉄道というメディアが全国的に整備された(一九〇六(明治三九)年に国有化)という事実の持つ意味を考えてみたくなります。
 鉄道は、本や雑誌・新聞・手紙なども運びますが、人そのものも運びます。及川平治が一九一二(大正元)年に刊行した『分団式動的教育法』は、「つぎつぎと版を重ねて(二五版)二万五千部という空前の売れゆきを示し、明石女子師範の付小を参観するものは年に一万人を越え、大正前期のわが国の教育界に大きな波紋をひき起していったのであった」(中野、前掲書、一一七頁)。木下竹次が主事をつとめて「学習法」の研究を進めていた奈良女高師附属小学校では、「毎年夏と冬に講習会を開催したが、これへの参加者は年ごとに増加し、木下が主著『学習原論』を刊行した一九二三年(大正十二年)には、二、四〇一名もの多数にのぼった。一年を通ずる参観者にしても、この年は二〇、〇〇〇名を越す、という驚異的数字を示していることから、同校の教育がいかに大きな影響を及ぼしていたかがわかる」(中野、前掲書、一七四頁)。
 鉄道というメディアに乗った(その車両に乗る「教員の身体」というメディアを媒介にした)知は、どのように再構成されたでしょうか? おそらく、参観者たちは「たった今、自分が目で見て、耳で聞いて、体で感じた教育実践」について、帰りの車中で語り合ったことでしょう。学校に帰ってから同僚の教員にも語ったでしょう。しかし、そうして語られる知は、すでにそれを語る「教員の身体」というメディアを通して再構成された知です。教育実践そのものではありません。現場の実践が持っていた身体性や事実性が捨象されます。教育方法論になるか、理想論になるか、あるいは、「あんなこと、うちの学校ではでけへんわなぁ」という嘆きとなるか、人によって語り方は多様であったでしょう。いずれにしても、その知は、鉄道というメディアに乗っているうちに、現場の教育実践が持っていた身体性や事実性を欠落させて再構成された知となったはずです。
 あるいは、何時間も汽車に乗って「新しい教育実践」を参観に行くという行為自体に意味があったのかもしれません(「こんなによく勉強している自分の仕事=教育には大きな意味がある。教育は奥が深い!」なんてね)。大正前期に明石女子師範附属小学校へ参観にいった小学校教員は、「新教育」について本や雑誌でよく勉強している教員、大正後期には奈良女高師附属小学校にも参観にいった教員だったのではないでしょうか。なんせ、学校のセンセ(の一部かもしれませんが)は、とっても「お勉強好き」ですから。
 「お勉強好き」といえば、社会教育の分野でも、大正期から各地で「夏期大学」・「自由大学」などと呼ばれる民間の自主的な教育運動が盛んになり、小学校教員が積極的に参加しています。そうした「夏期大学」を支えたのも、鉄道というメディアでした。中島純さんは、「学俗接近」を説いて「軽井沢夏期大学」や「信濃木崎夏期大学」を全面的にバックアップした後藤新平について、次のように記しています。
 後藤は、社会教育というものを物質的関係において抽象化してみるならば、それは人と情報の伝播と流通である、と認識していた。こうした考えから、夏期大学事業において顕著に見られるように、大学拡張と鉄道および郵便制度、ラジオ放送といった通信テクノロジー技術とが結び付けられ、同時期の社会教育に方法的な革新をもたらしていったのである。後藤が任じた逓信大臣、鉄道院総裁という役職は、社会教育家としての活動とも積極的に結びついていった。(中島、二〇〇四、三頁)
実際、軽井沢や木崎湖畔で開かれた「夏期大学」では、鉄道利用者に割引証を発行し、遠方からの聴講生に配慮しています。その割引証を使って全国から木崎湖までやってきた受講生の多くは小学校教員であったようです。中島さんによれば、「一九一九年十七年間の統計七〇八九名中、学校教員が六二九三名で八九%をしめた。(中略)なかでも小学校教員が八〇%ともっとも多く、以下、中等学校教員十九%、高等専門高等学校教員一%となっている」(中島、前掲書、四四〜四五頁)。
 「夏期大学」・「自由大学」などで教える教員(大学や師範学校の先生、高級官僚など)もまた、鉄道というメディアに乗ってやってきた(駅から会場までは自動車に乗ったかもしれませんが)。また、このような「夏期大学」・「自由大学」が開催されるという知そのものが新聞や雑誌というメディアを通じてもたらされ、その新聞や雑誌が鉄道というメディアによって運ばれる。そうした「物質的関係」があって、初めて「新教育」が学校教育においても社会教育においても成立したのだと思います(「土台」と「上部構造」の関係を論じているマルクス主義者みたいになってきました。時代遅れかもしれません)。
 こうして鉄道というメディアによって伝えられる知は、それ以前の知とはどこが異なるのでしょうか?
 全国的な規模で結ばれた鉄道というメディアは、知の発信地と受信地の距離を飛躍的に伸ばします。そうして両者の距離が離れれば離れるほど、知は身体性や事実性を失って抽象化・理念化していく(いわば「世界のバーチャル化」)。知が抽象化・理念化すればするほど、生身で教壇に立って児童に日々対面している小学校教員、政治的・経済的な理由によっていとも簡単に解雇されたり異動させられたりする辛い生活の小学校教員にとっては、「夢をもつことができる知」となって機能するのではないか。大正新教育の「新しさ」とは、実はこのような意味での教育知が成立したという「新しさ」ではないか。これが、私の第三の仮説です。

六.世界システムに組み込まれた「知」
 線路は地面に敷かれます。日露戦後から「日本」という地面も中国大陸へ広がっていくので(植民地支配)、線路もまた伸びていきます(南満州鉄道)。「日本」とヨーロッパとが鉄道で結ばれます(シベリア鉄道一九一六年全線開通)。鉄道は、船よりもはるかに迅速に知を流通させる。ヨーロッパ(知の中核)における「最新の知」が、ほぼリアルタイムで「日本」(知の周辺)に輸入される。それが「日本」の「新教育」における知を権威づけ、言説の目新しさを支える。そのような構造が成立し、「日本の教育界」が文字通りに世界システムの中に組み込まれて、世界同時性の実現を見たのが「大正自由教育=新教育運動」の時代であったのではないか(これを、私の第四の仮説と言ってよいかもしれません)。
 太平洋や大西洋・インド洋などは船が結びます。船はそんなに速くはない。しかし、確実に大量の書物や人を運ぶことができます。船に乗ってデューイが日本にやってきました(一九一九年二月)。バートランド・ラッセルもやってきました(一九二一年七月)。サンガー夫人もやってきました(一九二二年三月)。アインシュタインもやってきました(同年十一月)。ヘレン・パーカーストもやってきました(一九二四年四月)。
 船で海外へ知を吸収しに行った(といっても留学先は、アジアではけっしてなく、欧米と相場が決まっていたのですが)日本人もかなりたくさんいました。そういえば、中野光さんが樋口勘次郎の次に取り上げた谷本富は、一九〇〇(明治三三)年五月から約三年間にわたって欧米に留学しました。そこで「新教育」の実践と理論に直接触れたことによって、帰国後には(それまではもっぱら「日本のヘルバルト」を自任していたのに)積極的に「新教育」を説き始めたのでした(谷本富『新教育講義』一九〇六年)。一九二一年に「帝国小学校」を創設した西山哲次も、開校前にニューヨーク大学(教育科)へ留学してドクターの学位を得ています(「帝国小学校」なんて、すごい名前ですね。まさに世界システム!)。
 船や鉄道によって、知が運ばれ、流通する。船や鉄道といったメディアは、膨大な量の、いくら消費してもしきれないほどの知を運びます。日本の教育関係者たちは、あふれんばかりの「知の海」に溺れてしまったのかもしれません。昭和に入ると、教育言説はますます大量に流通するようになっていきますが、その内実はそれに反比例するかのように空疎になり、そこに国家が巧妙に、あるいは暴力的に侵入してきました。その結果は、もうみなさんよくご存じの通りです。しかし、それもまた「教育界」・「教員社会」自身が「夢」を求めた結果なのかもしれません。
 ここまで考えてきて、私はため息をついてしまいます。「あぁ、新教育って何と疲れる運動だったのだろう!」。もし、資本主義というものが「差異から利潤が生み出される」という原理にもとづいているとすれば(岩井、一九九四、三二頁)、この資本主義社会に生きる私たちは、どこまでいってもこの「疲れ」をもたらすシステムから解放されることはないのでしょう。こうして原稿を書いて発表している私自身が、他の研究者と言説の目新しさを競い合い、その差異から利潤を生みだそうとしているのですから(私の本を買ってください!)。

おわりに
 一九六八年に『大正自由教育の研究』を著した時、中野光さんは次のような歴史認識を持っていました。
 一八九〇年(明治二三年)の「教育勅語」の発布と新小学校令の制定とによって、その土台が完成した、といわれる日本の天皇制教育は、ひとくちにいって、日本国民を「臣民」(Untertan)に形成しようとするものであった。つまり、それは民衆の近代的教育要求が成熟するのをまたずに、絶対主義的な国家権力が「上から」学校をつくりあげ、の政策をになう「臣民」的の形成をはかろうとするものであった。そうした教育政策の基本路線は、一九四五年(昭和二〇年)の敗戦によって、天皇制が崩壊するまで続く。したがって、日本の教育は、近代市民社会における「自由」を確認することなく展開し、そこでは教育における民主主義的原則はゆがめられたり、抑圧されたりし、そのことが日本の不幸な歴史を正しくしていくことができない重要な歴史的条件ともなってしまったのであった。しかし、天皇制「臣民教育」の歴史的展開過程は、決して単純な一本道をたどったのではなかった。日本資本主義が帝国主義的段階に発展していったとき、したがってそこで、欧米列強との国際市場における競争場面に遭遇し、他方では、国内における労農階級の闘争、植民地における民族独立のための解放闘争に面したとき、教育もまたいくつかの側面から改革する必要に迫られたのであった。そうした改革の気運がもっとも高揚したのは、いわゆる大正期(一九一二〜一九二六年)であった。(中野、前掲書、九頁)
この後に、先に引用した「大正自由教育」——必ずしもその呼称は一定しておらず……という一節が続くのです。中野さんは、こうした歴史認識にもとづきながら、次のように問題を設定しました。
 大正自由教育運動の歴史的性格について、巨視的には帝国主義的発展段階におけるブルジョア民主主義的イデオロギーに支えられていた、という指摘が当をえているとしても、そういう指摘のみを結論とするだけの研究では、今日的意義はうすい。われわれが定めなくてはならない視点の一つは、大正自由教育が教育方法の改革に果した役割であり、そこにどのような遺産を確認できるか、ということである。(同前、十八頁)
 われわれにとっての問題は、自由教育におけるデモクラティックな側面がなぜ発展させられることなくファシズムの教育と結びついていったか、ということである。また「児童の村小学校」を例にとることができるように、大正自由教育の矛盾と限界を労農階級の立場に立つ方向で克服しようとした動きを可能にしていったものは何だろうか、ということである。このような問いかけは、実は戦後の新教育の歴史的評価、さらに現在における教育者のあり方を考えるうえにも重要なことである。(同前、十九頁)
何という鮮烈な問題意識! 何という志の高さ! 歴史研究とはかくありたいものです。中野光さんの『大正自由教育の研究』は、今も「古典」として読み継がれるに値します。
 しかしまたここには、この書が刊行された「一九六八年」ならではの時代的刻印も見ることができるように思います。一月二九日、東大医学部学生自治会が医師法改正に反対ストを打ったことから東大紛争が始まり、いわゆる「大学紛争」の高揚を見たのがこの一九六八年でした。そこでは、「(上からの)国家の教育政策VS(下からの)民衆の教育運動」・「ブルジョアジー(資本家)VSプロレタリアート(労農階級)」といった二項対立図式が身体的なリアリティを持っていたのだと思います(実際、頭の上から機動隊=国家権力になぐられましたから。あれは痛かった!)。
 でも、すでに今年は二〇〇四年です。土田杏村も次のように言っていました。マルクスを生かすがためにマルクスの方法を以てマルクスの内容を超越する、それが真のマルクス主義者だと。私もまた、そのような意味でのマルクス主義者でありたいと願っています。その時、メディアという視点は二項対立図式を超えていくのに役立つのではないか。これが、私の第五の仮説と言ってよいかもしれません。
 言うまでもなく、日本の新教育は、世界システム論などに還元し尽くされてしまうほど意義のうすいものではありません。新教育(自由教育)の最良の成果は、児童の村小学校や自由大学を一瞥するだけで明らかです。私たちは、そうした成果を吸収しつつも、それがメディアによってどのように再構成されて現在の私たちに伝えられてきたのか。私たち自身が(身体をもった)一つのメディアとして、新教育をどのように他の人々(学生や研究者など)に(ビデオや史料のコピーなどのメディアを使って)伝えているのか。それを考察することこそ、「今、ここ」に生きる私たちの課題であり、「歴史に学ぶ」実践的な意味であるように思います。

参考文献
岩井克人 一九九四、『資本主義を語る』講談社
小原國芳他 一九七六、『八大教育主張』玉川大学出版部(尼子止編 大正十一年、『八大教育主張』大日本学術協会発行を校訂・復刻したもの)
唐沢富太郎 一九八〇、『明治初期教育稀覯書集成(一)解説』雄松堂書店
谷本富 一九〇六、『新教育講義』六盟館(一九七三、玉川大学出版部復刻)
土田杏村 一九二二、『自由教育論 上巻 哲学的基礎に立てる教育学』内外出版
中島純 二〇〇四、『後藤新平「学俗接近」論と通俗大学会の研究——夏期大学運動の思想と実践——』平成十五年度 財団法人私学研修福祉会助成刊行物
中野光 一九六八、『大正自由教育の研究』黎明書房
日本近代教育史事典編集部 一九七一、『日本近代教育史事典』平凡社
樋口勘次郎 一八九八、『統合主義新教授法』同文館(一九八二、日本図書センター復刻)
広田照幸 二〇〇一、『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、(初出は「〈教育的〉の誕生——戦前期の雑誌分析から——」『アカデミア』人文・社会科学編第五二号、南山大学、一九九〇年)
山田恵吾 二〇〇四、「千葉県小学教育研究所の創設過程——一九三〇年代前半における教員統制の一断面——」、『日本教育史研究』第二三号
若林虎三郎・白井毅 一八八三、『改正教育術』(一九八〇、唐沢富太郎編集『明治初期教育希覯書集成』第一輯五、雄松堂書店)