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わいの原点のお話‼️

ここ数年のわいしか知らないヤツは、

「オマエの人生ほぼギャグ」

的なことをホザく。昔からの友人は「何も知らないくせに」と、わいの代わりに言い返してくれるが、いいんだよ、これは最大の褒め言葉なのだ。

この言葉の裏には、波乱万丈・どんでん返し・幸運・悪運・悲惨・ドラマチック、色んな意味があるだろう。どのみちわいにとっては、褒め言葉だ。なぜかって❓それを今からお話すんだよ。

暗黒時期のわいのお話をしよう。

わいは小学生の頃から「普通」が嫌いだった。というより「普通コンプレックス」だったといえる。家が普通じゃなかったからな。家庭内暴力だった。エーン。同情すんなよ、よくある話だ。詳細は割愛するが、わいが高校を卒業するまで、それは続いた。長くね、草。

悲劇のヒロインぶってた当時のわいは、心底「普通」に憧れていた。

「普通に」仲のいい両親
「普通に」可愛い容姿
「普通に」ゲームで遊ぶ日々

そして普通に見える友達が、心底うらやましかった。
わいは、一生分の嫉妬心を、この期間に使い果たしたのではと思う。あるいは、嫉妬心とは「人と自分を比べるもの」ではなく「自分の欲しいものに気づく感情にすぎない」と思い始めたのだよ。

小学3年生の頃には「なりたい自分には自分でなる」というポリシーができあがっていた。小3は早くね。

笑って欲しいところなのだが、わいは17歳まで、家のにいる自分が、本当の自分だった。外では、声も張り上げよく笑ったが、家の中では忍者のごとく歩き、誰とも会話できず、ひたすら小説を読んでいた。ちなテレビも制限されやがったので、AKB48やジャニーズを、大学生になって初めて見たのは、我ながら草である。

そんなこんなで、時飛ばしで17歳。

その日は訪れたよ。家庭内暴力から解放された。わいの人生史でいうと、ベルリンの壁の崩壊だね。平和の訪れだよ。自由とスマホを手に入れたわいは、そりゃあ世界が輝いて見えたね。真っ先に17年分のエンタメを見た。

ハリーポッター・のだめカンタービレ・花ざかりの君たちへ・プラダを着た悪魔・花より男子、とにかく見たね。17年分のドラマや映画を。そして思った。
わいはプラダを着たいし、海外に行きたいし、バリバリのキャリアウーマンになりたい❗️と。めでたい夢だよ。17年間、小説と伝記しか読んでこなかった小娘にとっては、全てのドラマは単なる物語ではなく「なるべく未来」としてうつったんだ。

間違いなくこれが、第二の人生のはじまりだった。

この時から「理想の大人」になるために生きた。大学へ進学し、憧れたアルバイトに就き、海外留学にも行った。これらの話を就活ですると、面接官によく「モチベーションはどこにありますか」など聞かれるが、愚問である。「理想の自分」になるために、着々とステップアップしてるだけなのだ。小3からの「なりたい自分には自分でなる」というポリシーは、ちょっとやそっとの苦労で崩れるものではない。

ここで付け加えると小学生のわいは、自殺未遂を何度かしている。小説の読みすぎだ。自殺がイージーだと思っていた。マジ死ななくてよかった。つまり、わいが人生でイチバン辛かった時期は、まさに小学生なのだ。過去に「20卒全落ちのあの頃は、人生で2番目に辛かった」とツイートしたが、1番はココなんだ。

逆に言えば、この経験があったからこそ逆境に強く、ポジティブマインドを保ち、立ち止まらず歩き続けられたのだ。こうして、ゴミほど強いメンタルのわいは、20卒全落ちを受け入れ、内定が出たヤツらと同じテンションで卒業旅行へ行き、一人たのしく留年した。

さて、ここまで読んだオマエは、わいのことを
「過去のつらい経験をバネに、前向きに生きてきた奴」だと思っただろうか。

ここに書いたことは間違いなく事実であるし、その解釈も正しい。だが「前向きに生きてきた」期間中にも、将来や恋愛や家庭の悩みで、泣いたり絶望視したことは、多くある。おれたちは、ロボットじゃない。人間なんだ。感情を持っているし、感情はゆれ動く。喜怒哀楽を繰り返して当たり前の生き物なんだ。

そして、そのとおり。ワイは「過去のつらい経験をバネに前向きに生きてきた奴」だと思ってほしいのだ。なぜかって、人生において他人評価と自己評価はまったく別物だからだ。他人がわいのことを「幸せなヤツ」だと思おうが、はたまた「不幸なヤツ」だと思おうが、わいの自己評価は変わらない。
だったら「幸運で、時におもろいほど悪運で、ドラマチックな人生を送っているヤツ」だと他人に思っていてほしいだろ。それでいいんだよ。ラッキーは自分で演出する。

これが「オマエの人生ほぼギャグ」が褒め言葉だという理由だ。過去の暗黒時期や、将来への葛藤は、本当に身近な友人だけが知っていてくれたら、それでいい。「なりてえ自分」ってのは、それを目指すと同時に自ら演出していくものなんだ。「弱音を吐くな」とか「自分を偽れ」と言ってるんじゃない。最大限に「カッコつけて生きろ」と言ってるんだ。根拠のない自信を持て。自分が、自分に満足して生きな。

〜ここで、普通コンプレックス〜

死ぬまでコレに取り憑かれる人は多いんじゃねーかな。他人と自分を並べては、他人と他人を比べて噂話。見渡せばそんなヤツらはゴマンといるのが、今の世の中なんだ。

「もしや自分じゃね?」と思ったオマエ、

きみは、誰または何と比べて、それを思ってるのだろう。それを思うってことは、きみの中に「世の中の常識」が寄生してるはずなんだ。「世の中の普通に合わせねば」と脳が焦ってる。果たして世の中の常識の中に、オマエの本望はあるのか。常識は、参考程度に頭にいれておくものだ。自分の正義は、自分で決めな。常識に左右される人生なんて、まっぴらじゃないか?な?

〜おわりに〜

こういう話を友人にすると「そんな深く考えて生きてない」と言うヤツがいるが、「それでいいだろ」と返している。というか、それが当たり前なんだ。おれたちは生きてもせいぜい100年。この世界には100年かけても出会えない量の言葉や思考や、知識で溢れてる。シワシワのおばあちゃんになっても、新しい価値観に出会うことはあるだろ。大事なのは、新しい価値観に対して、自分はどう考えるかってことなんじゃねーかな。

ツイッター人口は3億人。その中できみが今これを読んでることも、ひとつの出会いさ。これを読んで、きみが、自分にとっての普通を疑おうという気になれたら、このnoteに意味があったといえるだろう。

〜二日連続note書いてみて思ったこと〜
自分の中にこんなにコトバがあったことにシンプルサプライズ^o^;また言いたいことがあったらかくよ。


じゃね。アディォース^o^



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