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おしゃべりたらず

 夏の暑い最中に、僕は思います。おしゃべりが足りない、と。
いくら話しても足りない。妻に朝少し時間をもらって話しても足りない。
しまいには「あなたとはうまく話せない」と言われる始末。悲しい。
まずおしゃべりについて、上手いとはなんぞや?意思疎通がとれることか?
そうだとは思っていなかったから、そうならごめん。
打合せと称したおしゃべりの中で、話しながら問題を転がし両手で触れれる部分を満遍なく触る。全く解決しようとはしていない。違和感や触り心地だけで進む先を決めようとしているのだから聞いている方には
「こいつ進む気ないんじゃあないか?」と思われて仕方がない。
自分を自分らしく表現すると決めて生きてきたから、甲斐あってか、ますますそういう話し方になっていく傾向は強まっている。
 何故目的地を決めるのか?楽したいのか?自分のニーズに出会うために時間は必要ないのか?いるだろう?僕には膨大な一瞬が必要だ。
最近、時間とは実は流れていないんじゃないかと思い始めている。
目に映る全てが現実で、目を閉じると断片的に映る希望、願望、過去未来が非現実。そう思い込んでいたが逆の方がいいのではないか?人は目を閉じるだけで断片を連続で投影し願望を映して見れる。つまりこちらが現実と。暗闇に映る断片は連続写真のように今を創る。どこにも行かない。
次の今が映るまで今映っているものが続く。
 目を開くと目の前には裏山の緑が映っている。灼熱の暑さの中ほとんどない風を木々で感じたいが、緑は全て無風の静止画である。
仕事場の窓から見える巨大な緑の塊はピクリともしない。定点を観測しているとたまに動いてみせる小鳥や蝶の羽ばたきが巨大な緑の存在感を大きく演出する。怖い。小さな時に通ったスイミングスクールの水中に描かれた白線の永遠さとも似たようなとてつもない存在感。怖い怖い。
小さく身震いをおこしプールから上がると、現実の仕事机に目線を戻し
PC裏の猫を撫でて正気を戻す。とても長い時間おしゃべりをしていたようだ。猫も横たえた体をそのままに頭だけおこし目を細めながらこちらを見ている。午後は電動自転車で行けるところまで行ってみようとか、散歩するのにちょうどいい距離のコンビニにアイスコーヒーを買いに行こうだとか、昼飯に金閣寺の近くまでラーメンを食べに行こうか?とか。
あがったばかりのプールの塩素の匂いを、パチンパチンとボタンを止めることでスカートになるタオルで拭きながら喋っている。
全ての思いつきは反故になるであろう。暑いのだから。
夏は子どものものなのだから。
そういえば僕は大人への境界線をいつ越えたのだろうか?
越えないと大人じゃないのだろうか?たまに大人でたまに子どもじゃいけないのだろうか?
疑問符が増えてきたらおしゃべりはおしまいが近いことを僕は知っている。観客はマクラで温まり、おしゃべり中にいつの間にか水の中に浸っている。
浅瀬にいたはずがおやおや。潜れば白線が気になるので背泳ぎの体勢のままお話を聞きプカプカ彷徨う。やたらと疑問符がまくし立てれば、
あいつがやって来る。嗚呼もうおしまいかという気持ち。
長く彷徨い続けたためにできた水流にもう逆らうことはできない。
むしろしたくない。来るぞ来るぞ来るぞ。オチが来るぞ。
ガクン。
寝ていました。仕事場の様子はミリ単位でも変わってはいませんでした。
緑の静止画も、細めの猫も、暑さも、夏が子どものものだという事実も。
新事実はないかとキョロキョロ探すと、枕にしていた左腕によだれでできた小さなプールがありました。
蟻でも入れば気持ちよかろうと投げやりに思う。
オーライオーライという大声と共に引越しのトラックが暑さを増しにやってきた。時計は十二時を指しています。オーライオーライ、昼にしましょう。
涼しくなったら実家の母親にテレビ電話でもしようか。
今日もおしゃべりたらずが不足はあっても過はないとぼやきながら冷凍庫からアイスキャンディーを取り出しました。
また沢山の予定を保護にする予定だそうです。

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