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表現と小藪

読まれることを意識すると、本音を書けない気がする。

そう思い、文章はなるべく独り言で、頭の中でしゃべっている感じにするために「〜です」「〜ます」を使わず「〜だ」「〜である」という表現を選んだ。

普段、人と会話をするときは年齢を問わず敬語を使うことが多い。社会に出てからは、相手が年下であってもほとんどが「〜さん」呼びと敬語で話しかける。お相手がぐっと距離をつめてくれ、ニックネームをつけてくれたり、気軽にタメ口で話しかけてくれた場合には、口調が崩れることもある。

敬語で統一していれば、距離感を間違えたり、気安く踏み込みすぎることもないだろう、という予防線かもしれない。それもあるし、年齢だけで敬う敬わないを判断するのも違う気がする。

これを見誤ると、若い店員さんに対して横柄な態度で物申す年齢だけを重ねた大人になってしまうので、それは避けたい。

反面、す〜っと心理的距離を縮め、親しみを込め、フランクな話しかけをする人もいる。あぁ、良いなあと思う。決して威圧的だったり、上下関係を見定めた感じでなく、ただただ、友好的で信頼を感じる雰囲気だ。

結局、人柄によるところだ。それはそれとして。
普段がそんな調子なので「〜です」「〜ます」を崩したい願望があった。

ところで、たまに「人志松本のすべらない話」を見る。その中で、小藪千豊氏の話は期待してしまうのだか、最近まとめ音源を改めて聞いた。

彼はイキッった(=強そうに見せたり、格好をつけたりする)人をいつも許さない。けちょんけちょんにこき下ろし笑いを誘う。性格が悪いなと思いつつ、笑ってしまう。「スノーボード」「妹の夫」「交通ルール」「酒の席にて」は最たる例だ。

自分のnoteを読み返すと、たまに私の中の小藪が「は?」と言ってくる。

私のnoteは、家族や生活のエッセイが多いが、たまに「もっと知りたいこと」「最近知って感動したこと」を挟む。だから、ちょっと等身大の自分より先の理想が詰まっている。結果、賢くみせたい人、カッコつけた人にも見えなくもないな、と思う。

本や映画の感想、もっと知りたい世界について書くとき、私の中の小藪がすごい邪魔をしてくる。ついつい、せめて「〜です」「〜ます」表現をして謙虚な姿勢をとりたくなる。エッセイに逃げ込みたくなる。本当は書きたいことがたくさんあるのに。

表現と自意識はワンセットだ。小藪に打ち勝てる心の強さと開き直りを手に入れたいです。