多様性について考えたこと

最近、多様性、多様性とそこら中で言われている。
じゃあ、その多様性はどこからどこまでなの??

極端なことを言えば快楽殺人犯が
     人を殺すことは楽しくていいことだ
という価値観を多様性として認めろと主張した場合認められるのか。これに関しては誰に聞いても認められないと答えると思う。
では、少し身近にして「優生思想」も多様性として認められるのか。これは少し意見が割れると思う。
さらに、
子供を産む前に重度の障害を持っていることがわかった場合産むべきか?
という問題は意見が2つに割れて、そのどちらも多様性(考え方の違い)として認められるような気がする。

多様性を認めよう!という言葉は「どこまでは多様性として認められて、どこからは認めてはいけないのか。」という問題があると感じ、自分なりに考えてみた。

結論を先に書くと、

他者を侵害すること

が分岐点だと考えた。具体的には、どんな形でも他者を侵害するような価値観や考え方は多様性として認めてはいけないと思った。
例としてさっき出した「出産前に重度の障害が発覚した子供を産むべきか?」について考えてみる。
まず、産むべきor産まない方がいい どちらの意見も考えていることは多様性として認められる。次に、その意見を自分の考え方として発信すること これもまだ認められる。しかし、特定の他者に対して意見を押し付ける・強要すること これは認めてはいけない。例えば、これから障害を持っている子供を産もうとしている人に対して、「産むのは間違いだ!」とか、現在、障害のある子供を育てている人に対してデリカシーなく「産まない方がいい」と言ったりすること。これらは自分が考えた多様性の基準で考えれば多様性として認められるべきじゃない。

ついでに、考えたこと

多様性を認めよう!とかネットの誹謗中傷はやめよう!とかっていうのはすごく大事な事だと思うけど、根本的な問題には何にも解決にならないと思った。
ネットの誹謗中傷のせいで自殺した とか、 自分の価値観が認められないために苦しむなどの事件や問題に対してはとても効果があると思う。しかし、それは差別的なことを思っている人が発信しなくなっただけで、差別的なことを考えている人がいなくなったという訳では無い。多様性を認めよう!とか誹謗中傷はやめよう!とかいう標語はこの根本の問題にはあまり効果が無さそうだ。この根本の問題を解決できるような世の中になっていって欲しいなと思う。

最後に、こういうことを言うと浅くなるが何事も、「ケースバイケース」だなって思ってる。
基本的には人を殺してはいけないが、自分が長年にわたって苦しめられ、これ以上どうしようも無いという状況だったら、しょうがないと思ってしまう。

どんなこともその場その場の状況次第だなぁ。

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