三重構造の街つくば(1)

茨城県つくば市。人生で二つ目に住民票を置いた町である。(東京時代は実家に住民票を置いたままで、博士課程に入るくらいにようやく住民票を移したので。)

この町に住んで意識することをひとつ挙げるとすると独特の三重構造があるだろう。よく知られているつくばのイメージは筑波研究学園都市として建設された町という点だろうが、「何もない」(という言い方自体が都会人の価値観に基づいた表現であることが普通だろうが)場所に建設したわけではない。背景にある伝統と新しく建設した学園都市の二重性がまずある。

そしてさらにこの学園都市の開発以降に、つくばエクスプレスと歩調を合わせた宅地や市街地開発を進めた結果、三重構造になってしまっている。

まず、伝統の話からする。筑波山は関東の代表的な山の一つであって、その中腹の筑波山神社や、筑波山神社から始まる2km以上ある参道「つくば道」を中心とした地域についてはいわずもがな、そのほかにも「小田城」(南北朝時代や戦国時代あたりを調べると出てくる「小田氏」居城)や平沢官衙遺跡(古代の郡役所)など、古代や中世の日本史の遺構も少なからずある。筑波研究学園都市開発以前より、市街機能としては常磐線沿線の土浦や牛久に劣るものの、古代より延々脈々と続く伝統的な地域が背景に存在しており、農村を中心としながらも、一定の人口集積がある地域でもあった。

そのような背景のある地域に研究学園都市を作ることとなったのは1960年代。そして実際に建設が進められたのは1970年以降である。当初の計画は高度経済成長の勢いで大胆なものが作られ、そして、実際に都市が建設された時にはその高度成長に陰りが見え始めて、幾分か計画縮小を余儀なくされたものである。そのような計画縮小に従って、予定も変更されている。このときの変更にはどうも地元の背景事情も作用して変更内容が決まったようである。

たとえば、つくば市には南大通りという通りがあるが、この通りは本来の計画路線の中間部分が未成区間になっている。
http://sciencecity.tsukuba.ch/e257782.html
未成区間になった理由はこの記事では地主の反対と書かれているが、詳細は定かではない。記事中では小野崎城遺跡に一応言及されているもののそれとの関係は不明である。ただ、計画縮小と相まって通りの需要が減退し、その上で地元の反対が強い、ということであれば成り行きとして建設中止になるのもわかるだろう。この例一つを見ても言えることとして、筑波研究学園都市の開発時には、地元と計画には一定の対立があって、学園都市は地元を完全に排除することはできなかったことである。

1970年代から80年代にかけて整備された地域は研究教育施設とその周辺の住宅業務地が主で、下の図(つくば市のパンフレットより)に明らかなように、いくつかの地区が点在している。つくば市という広い地域の中にこのように開発地域が散らばってしまったのは、背景となる土地が「なにもない」土地ではないからである。

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ところでこの地図中には濃い赤色の「TX沿線開発地区」という地区が書かれている。この地区は、70年代あたりの研究学園都市として建設された地区ではなく、新たにつくばエクスプレス開業以降に開発された地域である。そこには30年以上のギャップがあり、都市建設の内容においては、まるっきり異なるものである。

例えば自動車に対する考え方は大きく異なる。70年代に建設された地域は60年代から計画があり、それは現代ほどには自動車の普及していない時代のものである。この地域にある大通り沿いの店舗に自動車で大通りから直接入ることはできず、自動車は地域とは分断されている。これは安全性や「自動車は地域を通過するもの」と理解したときには合理的であるが、以降の自家用車の普及は、車通りこそが人通りで、いかに車を店に招くか、という状況を地方にもたらしている。TX沿線開発地域では道路沿いに店舗を作り、多かれ少なかれ駐車場を確保する形態である。

このような開発内容の違いは「中心市街地空洞化」の要因の一つにもなっている。現に郵便局や警察署、銀行の支店などの多くの重要なインフラがつくば駅周辺の地区からTX沿線開発地区にあたる研究学園駅周辺や、その北の学園の森地区へと移転しており、表向きでは「副都心」であったはずの研究学園駅周辺地区の方が都心機能を有する異常事態となるほど、都市機能の転換が進められている。

TX沿線開発地区は70年代からの開発地区とは異なり、ただの住宅地区である。ここに供給される住宅を購入するのは立地を考えれば多数は茨城県南部地域か、せいぜい千葉県北西部地域の人と考えられる。結果としてはつくば市の国策的な研究学園都市としての側面が薄れ、周辺地域の代表的な住宅都市への転換が進んでいる。もっとも、これだけ盛大に進められている開発であるけれども、70年代から80年代に開発された地域を完全に否定し、大学や研究所をなくすことを意味しているものではない。住宅都市への転換もまた、完全な都市の上塗りではなく、あくまで既存の都市を残したものになっている。独特の三重構造はこのように形成された。

三重の都市構造の中に、それぞれに対応する住民がいるという特徴もある。伝統的に地元にいる人々、研究所や大学等に関連した住民、TX沿線開発で移住した住民。ただし、個別の地区ではそうした人たちが一様に住んでいる、それが現状だろう。完全なモザイクではなく、街路の様子もまるっきり違うわかりやすい違いを持った異なる地域に住む、異なる経緯を持つ人々が混住する状況である。

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