三角関数か金融経済か

日本維新の会の藤巻 健太議員の発言が話題になっている。

Twitter上の、私から見える範囲の人たちは概してこの発言に対して批判的な見解を示している。ただ、このようなTwitter上の正論的批判は概して「お前何様だ」批判によって逆に元の主張を通させるような展開になりがちで、もっと冷静になるべきだという感覚を覚える。

ここで予め立場を述べておくと、私の立場は藤巻氏の発言については、どのようにして金融経済教育の厚みを増すかの方法論については反対ながら、金融経済教育の厚みを増すことは賛成している。

というのも、金融経済に関して、今の中学高校で扱う基本的な理屈(概念の暗記ではない)をちゃんとわかっている大人って果たしてどれくらいいるのだろうか?また、金融商品についてどれだけその理屈をわかっているのか?となると、本当にわかっていない人ばかりなんだろうなと思わざるを得ない。

こんな発言をするとお前何様だ?となる。まあ、私は金融や経済については、高校の政治経済での勉強が最後で、その頃までは新聞の毎日見る誌面が経済面だった、という程度の一般市民の1人。なので、詳細をちゃんと言えとか、理論を歴史ともども語れと言われたら無理だ。ただやはり、そうはいっても、信用創造とか、国内総生産とか、金融なり、経済の用語は一通りには勉強したし、まあ、信用創造の仕組みだったりとか、中央銀行による金融政策の話とか、その政策が内容としてインフレ誘発策になるなのかインフレ抑制策になるのかくらいはまあ読み解ける。

彼の主張するところの金融経済というのがどの程度の範囲を一般市民にどの程度理解させたいのか?はイマイチ理解できていないが、大学に入ってから、高校の政治経済が個人の実践面で考えればやはり弱いのだろうな、というのは認識している。小学校から高校に至るまで、個人の生活にも直結する金融に関する知識を学ぶ機会は確かに小さいだろう。お金を借りるときや貸すときの利子について、複利の考え方や、返済の考え方、あるいは、信用という概念など、生活上の重要な課題の割には、扱いが小さいという批判はあって然るべきだろうと思う。私の認識として、金融と経済は生活上の重要なテーマである。

一方で、三角関数であるが、それが直接生活上の重要性を持つことはないが、私の立場として、学問上の重要性が極めて高いというものである。というのも、三角関数は微分積分と相性が良く、微分積分は数で表されるようなものについて、その変化を理解するのに用いられる。たとえば、場所は物差しを使えば数字にすることができ、場所の変化は、速度という形で捉えられるが、これは数学的には時間という変数での微分として定義される。これに限らず、自然現象をおおよそ数を用いて認識しようとする場合、ほとんど必ずと言っていいほど微分を利用するし、そのような微分に対して、三角関数が極めて都合が良いため、微分積分を使って分析する問題では必然的に三角関数を利用するハメになるので、我々が自然現象を理解する上で三角関数は必須と言える。

高校ではなぜ自然現象を理解する上で三角関数が都合が良いのか、というところまで踏み込めないし、動機も大幅にズレたところがあって、誤解を招いたり、また少なくない生徒たちに多くの公式を押し付けて苦手意識を植え付けさせるようなことを招いており、改善すべき問題は少なくない一方で、高校の教育の目的の一つは、高等教育への準備教育であり、そのような高等教育で三角関数を必要とする場面になったときに、三角関数に馴染みがあるのとないのでは大幅に違う。数理モデル化の発想が少しでもある人間ならば、藤巻氏の発言は極めてズレたものだという感想をもつのではないか。

ただ、とはいっても、高校数学での藤巻氏の三角関数を削ることに関する発言が完全に誤りとは言い切れないと思う。というのも、高等教育を含めて「数をもちいて」世界を把握しようという、数理モデル化の発想を持つ人間が少数派であって、そのような人間に対して「専門的」という括りをされているのであれば、必ずしも否定しきれないのが現実だろう。少数派のために全体が中途半端に三角関数を学ぶのはいかがなものか、という発言に聞こえてくる。

そう考えると、高校教育に三角関数が含まれているというのは、「高等教育のなかで広く前提として使われる概念を教育することで、円滑な教育を実現する」という、高校教育が高等教育への接続段階を果たす発想をなんとか現在まで続けてきたことの現れなのだろう。ある意味プライドだが、変化に対して、硬直化した態度である雰囲気は否めない。

逆接を使いすぎて何が言いたいかわからなくなってきているだろう。答えを言う。

いいかげん、教育を現代化しなくてはならない。いまはもう2020年代なのである。1940年代ではない。高等教育は大衆化し、ろくすっぽ勉強のできない人たちが平気で大学にやってくる一方で、学問も進み、また、社会も技術革新による高度化を経つつ、小学校や中学校は戦後改革から80年近くを経てさまざまな問題を抱えたものとなっていることが浮き彫りとなっている。

教育課程をストップさせ、歪ませている正体のひとつは受験にほかならない。受験というものが、一定の枠組み、縛りをつけた状態で、かつ選抜能力を持たせるために、有能な生徒を選ぶために難しいものにならざるを得ない。すなわち、教育課程で得た経験や知識に素直に理解できる範疇を超えた問題が出てきて、それらの解答能力を上げるための技法や考え方と向き合う時間がひたすらに伸びてしまった。こんな馬鹿らしいことがあるか。最低限、ここを目的にする教育というのは、なんとかしないといけないだろう。

特に小学校の算数の文章題で出てくるような鶴亀算、植木算といったものにどれほどの実用性があるだろうか。小学校の多くの教材は生活に根ざしたものではあるのだが、残念なことに現実的な生活をそのまま反映しているのではなく、血生臭いものが何一つない、牧歌的でのどかで平和で安全な代わりに、極めてつまらないもので固められた箱庭のようなものである。植木が等間隔に何個並んでいた。最後どれだけ離れているか?そんな世界だ。そのつまらない問題を数こなして早く解けるようにする受験勉強、最悪を極めすぎていないか?

小学生でも世の中そんな長閑でシンプルな世界が広がっているとでも思っているのだろうか?彼らは実際に学校の中で社会を作り、そこにカーストを構築して、平気でイジメをしているような連中である。イジメはよくない、なくすべきだというのは至極正しいが、学校の中身をできるだけ理想で固めて、大人の社会に澱んだ闇を排除すれば、理想を実現できると考えるのであれば、そのような教育者のほうがよほど単純でバカである。子供が受ける影響の大半は親や友人であって、学校ではない。金融の話くらいよっぽどしたほうがいい。お受験でいい中学校に行ける人なら、その程度のこと楽勝に理解できる。

というか、一般の小学生でもそんなに難しいだろうか?

「金融なんて小学生には難しい」というのは、それは全てのことをやろうとしたら厳しいかもしれないが、一部は間違いなくできる。彼らは小数点のついた掛け算くらいできる。約数の扱い方だって練習する。複利を考えるのに、等比数列を使って一般化して考えるのは厳しいかもしれないが、「年利◯%で△円借りました。一切返さなかった場合、3年後に借金はいくらになるか?また、6年後はいくらになるか?」とかは普通に計算できる。そういう例題をたくさん解かせて何が悪いのか?それだけでも金融の勉強になってくるだろう。

三角関数についても然りだ。三角関数の有用性は微分積分への性質の良さと述べたが、個人的にその最たるものが、フーリエ変換やその離散版のフーリエ級数展開であると考えている。フーリエ変換のすごいのは、(反例が大変簡単な関数であるのだけれども、実用上問題が生じないような工夫を考えるなどすることで実質的に)世の中のありとあらゆる関数は、三角関数の足し算で表すことができる、という完全性であるだろう。これがあるおかげで、関数をフーリエ変換しておき、それから微分を施すことで、線形微分方程式を解くことができるという、あの話ではないかと感じている。その証明を一般の高校生にやらせろ、とまでは言わない。

だが、これほど計算機が普及した世の中なので、フーリエ級数展開でさまざまな周期関数が近似されていく様子を確かめるのは容易だし、なかなかに面白いものだ。私は高校時代に個人的にそのような経験をしているけれども、全員がしているわけではないだろう。現代化するなら、このような体験でもさせたらどうか。

表題に対する私の答え、それは三角関数も金融経済も両方やれ、である。それは東大出で、中学高校時代に理科と社会で学年1位だった学力強者だった筆者が他の人の実力を無視した暴言、ということではなく、現実にそぐわなくなってきている教育から文章題の例題の作り方を変えるなどの細部の視点から、ゆくゆくは受験そのものや、あるいは受験を目的にするような教育という発想を含めて改廃する、教育を新陳代謝させる結果として実現しろ、ということである。というか、それをやらなければいけないだろう。

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