茨城県西中学受験ぶっちゃけ座談会出演後記2-進学実績を読む-

さる7/3にこんなものに出ました。

出る以前から諸々について思い出しては悩み、そして何を話すか迷いに迷ったが、最後は司会者と他のパネリストの発言と全体の時間が不要なものを適切に除去してくれたと思う。

結局のところ、
・本人の精神を害してまで行うものではなく、撤退可能であることを認識すべき。
・そもそも、続く3年ないし6年の環境の選択を目的に行うものであり、そこの最適化のための一環として取り組むべきことに取り組む必要がある。
・環境選択は中学に限らず、高校での選択という観点もある。
という3点がおそらく本会の行き着いた結論だと言っていいだろう。

この結果に行き着くに至っては、多くの情報の取捨選択があり、それらは上述の条件たちが作り出したものであるのだが、実のところ、主催者の意図の全てがここに収まっていたかといえばそうでもないと思うし、私を含め、誤解を招く情報を述べた危険があると考え、それについてはやや補足したい。

学習環境の一つとして、どのようなクラスメートがその学校に来るのかというものが重要なファクターであることをT氏が述べていたが、それを察るには学園祭などの場面で生徒と交流するといったことが求められる。私も本当はそっちの話をちゃんとしたかったけど、実のところ「順位を出さず、競争を煽らない」とか「緊張感がない」といった、一般的な受験の「競争」イメージが上位校では正しくない話は割と情報として重要だと思って言ってしまった。しかし、よく考えると、誤解を招きかねない。受験において上位校に行くことが重要なのではないか、という誤解。これ、みんなしてるけど、結構ウソ。

ということで、進学実績という数字について少し述べておく。

進学実績という情報について

世の中には、東大と京大の合格実績を70年分追跡して高校別にリスト化したとんでもない人がいて、しかもその人がデータを無償公開してくれている。リンクから飛んで色々見て欲しい。https://www.shindeme.com

で、例えばであるが、茨城県のページを見ると、東大合格者の70年間の累計を見ると、土浦第一1026名、水戸第一1006名と2校が圧倒的に強くて、他は100名でもかなりいい部類で、という状況。だが、よく見て欲しい。70年間で1桁の高校が30校近くあることを!そして、そのような1桁校の中には、工業高校(下館工業)や商業高校(水戸商業)も入っている!一般的には東大はおろか、真っ当に国立下位の大学でも合格できれば喜ばしい状態の中、東大が出て来るのである。

彼らは孤独な中で受験を戦い抜いたのである。そして勝ったのである。おそらく、学校側のノウハウや、授業体制、上級生からのアドバイスや、情報など、不利に次ぐ不利な状況であったのは間違いないが、勝ったのである。なぜそんなことができたのかは当事者でなければわからない。しかし、ここからわかるのは、本人の意志や家族の支援など、状況次第では相当な不利を覆す受験者が70年もあれば現れることがあるし、その程度には覆すことが可能だということである。また、環境云々はある意味では「その程度のもの」でしかないのかもしれない。(参考:付録)

進学実績と入学時点での成績はこだわりすぎてもいけない

優等生は最初っから頭いい、ということは悲しいかなかなり強い事実だろう。そうなるとやはりいい成績をとっていい高校行けた人だけいい大学に行ける、という風にも読める。

しかし、この読み方は誤りが2つある。実のところ、「優秀なあなたが来ることで我が校の実績をよくしてくれ」と言わんばかりの学校がたくさんある。受験生は、そういった各学校が優秀な生徒を取り込むための「頑張りポイント」を込みにして、自分に合う学校かどうか、判断する権利がある。頑張りポイントも一つの、学校の環境を形成する要因であり、自分がフロンティアを切り開くのだという精神を持って、既存の学校にはない方針の学校で成功を狙うという考え方は一つのあり方である。

そのようなことも含めて考えれば、数字がそれほど良くない学校を敢えて選ぶこともアリではある。ただし、その場合、その学校の方向性や考え方などにしっかりと目を向けるべきだろう。何らかの数値(例:「国立大合格者」「現役合格率」)をよく見せるための小細工(例:「底辺国立大を受験させる進路指導」)などには惑わされずに行きたい。

次に、実は高校で逆転するケースはいくらでも起きていることも確かめてほしい。たしかに、茨城県からの東大合格実績は二強の占有率が目立つが、2019年でも県全体の東大58人中28人であり、それに次ぐ並木と江戸取を足しても40人。18人は別の学校であり、9校に分散している。割合はともかく、下の高校から上に上がる数は少なからずある。

一方で、茨城県最上位の土浦第一高校も東大に進学したのは20人台で、他校に比べれば確かに多いとは言え、これは学年定員の1割に満たない。もちろん、東大に行ける実力を持つ生徒の数を直接表しているわけではない。現実にはおそらく、上位4分の1(80人)ないし5分の1(64人)程度は東大にいける希望がある学力の持ち主で、実際の合格者との差分は、京大や医学部などに散る場合や、当日の失敗で不合格になったために滑り止めの別の大学に進学したといったところだろう。(注:この数の予想は外部からはかなり難しい。内部の人に聞かないと正しいことは全くわからない。だからこそ東大合格者数に周りも学校も拘るのだろうが。)

とはいえ、仮に4分の1説をとって、80人だとしても、土浦第一の320人中240人は東大は厳しいことになる。また、土浦第一からの大学合格者には上位国立以外でも、茨城大などまとまった数の合格者があるため、第一志望で中下位の国立を志望する生徒がまとまっていても不思議はない。実のところよくわからないけれども。

いずれにせよ、土浦第一の下位グループよりも、目立った数は出さなかったが合格者を出した9校18人の生徒の方が、高校卒業時の学力は間違いなく上だろう。高校入学時点でどうだったかはともかく、いい高校がいい大学を保障するわけでもなければ、それほどでもない高校からいい大学に行く場合もある。いい高校ほど、いい大学に行く人の割合が高いだけで、普通の大学に進学する人も一定数いる。

茨城県西地区から東大に行くには

だいぶ長くなってきたが、座談会での失態があるので最後に。県西地区の会なのに「水戸」や「県南」というワードを出して県西というワードを出さなかった失態をぬぐいたい。その原因は数字上、東大合格者は県南や水戸の学校に集中していて、県西の学校はまとまった数にはなっていないことだ。

進学校データ名鑑を見れば、戦後すぐの下妻第一が10年で20人以上合格者を出している。おそらくこの頃は学区制が強い影響を持っていただろうことや、旧制中由来、県内3番目の伝統校である以上、成績上位層の流出がこの時代ほぼなかっただろうと見込まれるので、県西地区のポテンシャルはこのくらいかな?という大雑把な指標になる。その時期から東大の定員は随分と増えていることや、他の進学先を考えることが増えた点も合わせれば、地域全体で、10年50人なり10年100人くらいはあるかもしれないが、茨城県全体で2010年代に581人の合格者ということを考えてもその辺りが限界なのは間違いない。

10年100人説を採用しても、1人残らず吸収できる上位校を作り、彼らを1人残らず東大志望にさせたところで、ようやく東大だけの数字が水戸第一に及ぶかどうかのラインで、実際のところは医学部に振り向けたい事情があることを考えても、この数は不可能だろう。となると県西の学校が水戸第一や土浦第一に見劣りするのは仕方ない。これに加えて、県西地区は交通体系として自家用車を使う場合を除けば地区の外に出やすく、内で交流しづらい。そのため、地区全体のまとまりには欠けているところがある。残念ながら、水戸第一や土浦第一への通学が可能な人たちはそちらへ向かうだろう。

水戸一も土一も、越境も難しい場所にいるとか、あまり遠くに行きたくない場合の選択肢は?と言われたら、これはもう、仕方ない。残った選択肢はこれしかない。

自力でフロンティアを切りひらけ

進学校データ名鑑に70年で1人だけの学校がたくさんある。その1人みたくなってしまえばいい。

そもそも、大学入試は、入試時点で試験問題を解いて合格最低点まで取れればなんでもいいのである。中受してもしなくても、進学校に行ってもいかなくても、なんでもいい。最後に高校範囲を十分に深く理解して、試験問題を解けるかどうか、だ。大学受験が気になるだけなら、さっさとドラゴン桜でも読んでプランを立てておけ。で、どうせすごい暇が続くから、それを学ある人間にするために使うのがよい。

高校生活のうちに受験の占める割合などそれほど高いものではない。どんな場合であれ、フロンティアを開くことが求められる。

付録

高校入試偏差値と進学実績の相関と因果〜愛知の学校群制度から見る〜

進学校データ名鑑は、環境云々よりかは断然入学偏差値の方が重要であることについてもしっかりと情報を教えてくれている。多くの事例では、それを疑っても、環境と入学偏差値が卵と鶏の関係になってしまって、立証が難しいのだが、愛知県で1973年から行われた学校群制度を調べると、入学偏差値がいかに重要かがよくわかる。

学校群制度は、受験者は行きたい学校を選ぶのではなく、「群」と呼ばれるものを受験し、学力順で奇数番目ならA高校、偶数番目ならB高校などと機械的に割り振る制度である。この制度の導入前の難関校は名古屋市内では旭丘、明和、瑞稜の順であった。制度導入後は中上位校は全て群に組み込まれたので序列は群に対してついた。序列は、80年代には2群、1群、6群、15群の順になったとされそれぞれ、「旭丘、千種」「千種、菊里」「明和、中村」「菊里、向陽」という2校にそれぞれから割り振られる。また、各校は2つの群から生徒を入学させる形になっている。

千種は2群と1群の難関の二つの群から生徒を受け入れたため、優等生しかいない高校となったことが予想される。とはいえ、最難関の2群は旭丘と2校に生徒を分散させているため、単願時代の旭丘と比べれば、上位成績の入学者は両者に分かれてしまって、学力上位層の厚みは薄いと期待される。それはおそらく正しいのだが、面白いのは、それが卒業時の進学先で見ても正しそうなことだ。

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1975年以前の数値は学校群導入前で、旭丘は東大、京大、名古屋大ともに高い進学実績を持つが、千種高校はそれほどではない。しかし群導入後、千種は一気に伸びて、以前の旭丘に迫るほどの、しかし、以前の旭丘は超えない程度に伸びる。一方で、旭丘は実績を落とすのである。

高校入学時と卒業時では3年の間があり、環境が重要なら、入学時の生徒の成績が悪い人が増えてもカバーしそうなものであるが、現実にはそうはいかないのである。都合の悪いことだが、優秀な人が集まるから進学実績が伸びている、そう読むのが、自然なようである。

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