怒りは覚える人間だが

家庭教師、塾講師といった経験の中で、「森さんは怒らないですよね」と言われたことが何度かある。話を聞くと、丁寧に説明をして行っても相手がそれを理解しない時に怒ることが少なからず発生するのだという。なんならこれについて「才能」とまで言われたことがある。

これについてだが、私は全く才能とは思っていない。というかむしろ私自身は怒りっぽい人間でして、言うことを聞かない輩に対して、自分の思い通りにならない存在に対しては常にイライラする人間であるとさえ思う。のではあるが、生徒に対しての授業で相手が理解してくれていないような節には確かに怒るというラインが他の人より高いところに設定されていると言われて、自覚はないわけではない。

というのも、まあ、授業をして、相手が理解してくれないというのは、確かに思い通りになっていないという事実はそこにあるので、怒りの発生原因がそこにあることはまちがいなくて、授業中にイライラボルテージの上昇そのものを感じたこともあるにはあるわけで、ラインはあるのだろうなと感じているし、また他の人がここで怒るんだろうな、というのは経験的に分かるところもある。ただ、それでも生徒が授業を真面目に聞いている状況で怒り出すという展開にはまずしないように思う。

怒りは覚える体質だが、授業というような場面について言えばあまり怒らない、それは基本的には自分の体験に由来するある種の信条による自身のコントロールが効いている、これがその実のところである。

百聞は一見にしかず、などとはいうが、授業で他人に何かを説明したところで、当人が自ら手を動かして積極的に理解しにいかないことにはたいていのことは理解できるものではない。授業中生徒がわからないという顔をするときの私の怒りを抑制する信条を言語化すればそんなところ。

もっと実践レベルに言えば、その生徒が全く考えたことのない話について、たかだか数回人の話を聞いたくらいで使えるようにすることを期待してはならない。

そもそもであるが、人は話を聞いていても実践するのは容易ではないようである。例えば浪人時代のことだが、予備校講師というのは何度でも同じことを言ってくるのである。それもすごくシンプルなことを。同じ場所で言ってるのだから、生徒は全員何度も何度も聞かされている。なぜ、そんなことをするのか。簡単で、そこで授業を受けている生徒が試験で落としているから。ちょっと例を変えたりしながら、同じ表現で対応される問題について延々と主張をしてくる。しかもとても単純なフレーズをだ。「関係代名詞は、代名詞だ」とか「直角を探せ、なければ作れ」とか、そんなレベルのことを延々言い続ける。聞いているとFラン大学受験生で頭が悪いのかな?とか、そう思いたくなるだろうが、これ、東大選抜コースの話。東大からしてFランなのだ。

これに限ったことではない。YouTubeで山本昌と検索すれば色々な動画が出てくるが、32年間現役で投手をしていた山本昌がアメリカ留学時のエピソードとして語っている話の一つに、恩師のアイク生原コーチは、いつも基本的な、「誰でもわかっている」ことしか言わなかった、というのがある。全員知識として、フレーズとしては聞いたことがあれど、実際にできているか確かめてみるとできてねぇじゃんと。

その上で、私もまたそのような基本的フレーズについて、何度言われてもできていない自分、というものを経験してきた人間である。そのような自分を何度無能な人間と罵り呪ってきただろうか。その数は計り知れない。

フレーズの決まったことでさえエピソードは計り知れないほどあるが、お勉強についてなかなか思うように理解できなかった箇所を個別に見ていけば、さらに追加で自分に当てはまるような「物分かりの悪い人」を示す例が積み上がる。数学、物理、試験での成績が良かった科目のはずだが、そこでの学習の中で、基本に立ちかえることができなかったりする。

また、割とよくある話として、だいたいできるようになって調子こいてきたあたりで、今度はまだ必要な概念があっても新しいものを受容できなくなってくるというものがある。実のところ、それ以前に習った知識とその運用だけで余裕がなくなっており、キャパオーバーが発生している。そうなるとバランスが悪いわけで、自分の中での理解として他の知識との位置付けが見えてこない部分をも理解の枠組みの中に維持するのが不可能になってくる。こうした知識はどうも私は拒絶という形で対応するようで、そういう知識が関連するものが増えてきたところで盛大に挫折した経験を何度もしている。この経験を教える側視点からすれば、「あいつこの話はちっとも理解してくれない」となるだろう。

「森さんはよく怒らないですねぇ」と言ってくる人たちのことを聞くと、なんとお利口さんな育ちをされたことで、と内心思うところである。「え、何度同じこと言われても身にならなかった経験ないんですか?」とか、「人の話を自分のものに組み込む余裕を失った経験ないんですか?」とか、そう思うだけなのである。

人によっては「小学校や中学校の話でそんなことにはならないでしょ」と言ってくるかもしれないが、果たしてそうか?例えばだが、中学の数学で扱う式の展開の話を理屈で追えば確かに原理に素直にやればできないことではないけれど、ちゃんと原理に従うのってそんな簡単か?と私は思わずにはいられない。

実例として挙げておこう。中学生の常識である。

原理1:実数a,b,cの3つがあるとき、それがどのようなものでも、(a+b)×c=a×c+b×cである。

原理2:2つの実数a,bについて、それがどのようなものでもa×b=b×a

このような原理がある時(a+b)×(c+d)=a×c+a×d+b×c+b×dであることを証明せよ。

と言われてどれくらいの人がパッとできるのか?凄く簡単な例だが、これを実際に計算するには、最初c+dを一つの数字と見做して、原理1を適用し、原理2を適用して原理1が適用可能な掛け順にしてからもう一度原理1を適用する、というような操作をすることになる。「c+dを一つの数字と見做して、」というのも、+という演算が2つの実数から1つの実数を生成するもので、記法として演算子+を含む式を書いていても、実は数式中ではその演算によって得られる1つの実数を表しているという認識がなければ?ということになる。

それでも、結果としての展開はそれほど難しいものではないから、この結果こそを新しい「原理」とすることで誤魔化せる、それが中学での処方箋なのである。そんな必要はないのだが、演繹能力の不足を補うには便利である。演繹して自らこの結果を構築できる人なのか、単に結果だけ覚えているのかを通常のテストでは弁別できないので、中学を生き延びるのは容易い。

ところが高校大学と進むと、そうやって置き換えた、一般化された「原理」を証明しろ、とか言われるとこれは詰んでしまう。逃げたツケを払う時が来たわけだ。

これは一部の例に過ぎないが、小学校や中学校の時点で本当は誤魔化している可能性がある。そのようなごまかしのツケを払わされるときには、学校の先生やら教科書やらの言うことが理解できないと言う形から始まってくる。

ごまかしにごまかしを重ねて生きてきた私は、学校の先生や教科書の言うことがわからん、そんなこといくらでもあり過ぎる。

これに限らずだが、先生の話がすぐに実践できる形で入ってこない、とかいう事例は嫌と言うほど経験に経験を重ねており、家庭教師なり塾講師なりのその事例は自分の経験に勝手に焼き直されてくるので、怒ったところで盛大にブーメランが返ってくるだけのこと。

ブーメランが返ってくるの、つらくないんですかね。それとも返ってこないほどに頭の良い方なのでしょうか。どちらにしても、羨ましいですね、そんな先生たちのことが。

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