テストのカンニング

テストでカンニングをしたことがある。

古い話でいつだったか正確には覚えていないが、たしか小学校の2年生だったとおもう。漢字ドリルを十分に解いてなくて自分の中では抜き打ち的にやられたテストだったので自信が持てず、答えを見てしまえ、という発想で机の中のドリルを見て解いたのである。

このテストのカンニング事案だが、テスト中に先生にバレてしまった。で、その時に先生が行った懲罰と、それに対する私の反応が今回の主題。

先生は怒り、そして、恥ずかしい思いをさせることで今後カンニングをしないようにする意図があったのだろうが、机の中にあった教科書、ノートその他のものを全て床に撒き散らし、「これでやれ」といって試験が継続された。

普通に考えればひどい話で、とんでもなく恥ずかしい思いをしたトラウマ話なのかというと、実はそうではない。あらかじめ言っておくが、この時以降私はカンニングをしてはいない。だが、恥ずかしい思いをした部分については本当に余計なものでしかなかったと思っている。

結論から言うと、恥ずかしいと感じるセンサーが切られて、その行為に正当な意味が付与されてしまったのである。

教科書その他が机の中にないという状態はカンニングをできなくする効果もある。私がどう捉えたかと言えば、むしろこっちだったのである。机の中から教材を全て無くすことで、カンニング行為に対する潔白性を象徴する行動としてインプットされてしまったのである。

その結果、私は小学校を卒業し、中学の段階(もしかすると高校)に至るまで、カンニング対策として机を空っぽにしろという段階で、教材を床に撒き散らす行動をするようになってしまったのである。本来恥ずかしさを持つはずの状況だったが、それ以上に潔白性の方が優先され、さらには誤ってインプットされた潔白性の意味と結びついて、いつまでも、むしろ自発的にそのような行動を取るようになってしまったのである。

実のところ、自分からその行為をした段階では私に一切の恥ずかしさはなかった。ある意味、カンニング事案からの更正の象徴のような側面もあり、不正行為に対する潔白性を象徴すると同時に、自分の中では不正をしないための誓いのような意味をも持つようになっていた。

今になって思えばその教員は恥ずかしい思いをさせようというような思いつきだったのだろうと思うが、当時の私はそのような思いつきという認識もなく、また自分が受けたことの特異性も認識していなかったわけで、すでに経験したことについては最早恥ずかしいもへったくれもなく、普遍的に経験するものかのように扱われたのである。

ただ、そのようなことを知らない周りからすれば小学校中学校に至るまで続けて奇異なことをする「変なやつ」でしかなかっただろう。そのようなことをしていた自分に対して、今頃になって恥ずかしい思いをせざるを得なくなる。そして、そのようなことをした教員に対して非常に大きな怒りを覚えるものである。恥ずかしい行為をしたのは自分である。しかし、そのような行為を仕込んだことに対して、当該教員への怒りは大変大きなものである。だが、それでその教員を責めることが可能なのかと言われると、おそらく不可能なのだろう。そのような怒りは大概、自分にぶつけて自己評価を破壊することでしか解消のしようがなくなるのである。

さて、このような行為は大変に大きな人生に対する後悔になっているが、はたして私にそれを防ぐ手立てはあったのか?おそらく、選択の自由があったようには思わない。


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